芥川龍之介は1892年(明治25年)生まれ。代表作は『羅生門』『地獄変』『藪の中』など。
作品は短編小説がほとんどで、古典の説話を題材にした作品が多いのが特徴です。
けれど晩年は生死を取り上げた作品や告白的な自伝作品が多くなり、1927年に「唯ぼんやりした不安」を理由に自ら人生の幕を閉じました。
太宰治は1909年(明治42年)生まれ。代表作は『走れメロス』『斜陽』『人間失格』など。
自殺未遂を繰り返し、最後は愛人の山崎富栄と入水し、亡くなっています。行動面としては問題が多い彼ですが、それらの作品は現代でも人気が高く、長く読み続けられています。
年齢は17歳差。直接の接点は薄い2人ですが、太宰治は芥川龍之介を尊敬していました。
今回は18歳の太宰治の芥川龍之介への想いを中心に、その後の「太宰治と芥川」のエピソードについてご紹介します。
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「優等生でお金持ち」太宰治・芥川龍之介作品との出会い
太宰治は優等生でした。
家もお金持ちだったので毎日のように本屋に出入りしていました。
広告で知った新刊書を探して、無い場合はしばしば注文して本を取り寄せていたそうです。
下宿の押し入れの上段を書棚代わりにして、本をずらりと並べていました。
1925年・16歳の時に、友人と一緒に初の文芸同人雑誌を作ります。
その雑誌の名前は「蜃気楼」といいます。1927年2月までの間に、合計12冊を刊行しました。
「蜃気楼」というタイトルは太宰治が付けたもので、表紙デザインなども太宰自身が行っていました。
太宰治が芥川龍之介の作品を良く読むようになったのは15歳(1924年)ぐらいからだったようです。
そして怒涛の芥川龍之介イヤーとでもいうべき1927年がやってきます。
「運命の1927年」太宰治17・18歳
1927年3月 芥川龍之介『蜃気楼』発表
1927年3月太宰治が17歳の時に、芥川龍之介は、小説『蜃気楼』を発表します。
この小説のタイトルは、太宰治の同人誌「蜃気楼」と同じです。
(※同人誌「蜃気楼」は1927年2月が最終刊になりましたが、この時点ではまだ休刊のつもりでした)
このタイトルを見た時、太宰治のテンションはかなり上がったと思います。
「自分の好きな作家さんが、自分の同人誌と同じタイトルをつけている」
たぶん芥川龍之介という作家に、自分と同じ感性・近いものを感じて盛り上がったはずです。
また、この頃の太宰治の写真には、芥川龍之介のポーズを真似たと思われるものがいくつも残っています。芥川龍之介に憧れる太宰治の姿がよくわかります。
1927年5月 芥川龍之介の講演を聞く
1927年5月に芥川龍之介は青森で講演を行っています。
この講演を太宰治は直に聞いたと言われています。
3月に気持ちが盛り上がってそして5月です。
講演のタイトルは「漱石先生の思い出」。きっとそこでは漱石と芥川龍之介のなごやかな師弟関係について語られたことでしょう。
この講演を聞いて太宰治は、芥川龍之介の弟子になる自分なども想像したかもしれません。
このように1927年は、太宰治の芥川龍之介に対する想いが一番強くなっていた時期だと思います。
そして7月がやってきます。
※この講演を太宰治は聞いていないという説もあります。
急に決まった講演だったので、太宰は聴けなかったのではないか、というものです。
ただ、急な講演を聴けたらより運命を感じるし、聴けなかったとしても「芥川先生がこんなに側に来たのに会えなかった…」という残念さでかえって想いは募ると思います。
1927年7月 芥川龍之介の死
1927年7月24日に、芥川龍之介は自ら死を選びました。
太宰治のショックは大変なものでした。
それはただのショックというよりも、そこには独特の心の動きがありました。
(太宰治は)7月24日未明の芥川龍之介の自殺に、激しい衝撃を受け、感動に心を震わせた。直後、生家から弘前に還り、下宿の二階に閉じ籠り続けた。青森中学・弘前高校同期の理科甲類上野泰彦によれば、「芥川の自殺を賛嘆・羨望する言葉を昂奮しながら述べ」ていたという。
山内祥史『太宰治の年譜』大修館書店 より
たぶん太宰治の芥川龍之介に対する想いは上がりすぎていたのだと思います。
若者から見て大人は基本的にみんなバカです。けれど一旦尊敬した大人に対しては、すべて受け入れるようなところがあります。
青年期の太宰治にとって芥川龍之介は、きっとそのような「完全に尊敬する人物」でした。
そして亡くなったことにより一層尊敬を深め、そこに芸術家としてのあるべき姿を見ていたのだと思います。
芥川龍之介が亡くなって一か月後、優等生だった太宰治は義太夫を習い始め、芸者遊びをするようになります。
そして成績は急降下、生活は大きく変わって行きます。
芥川龍之介の死をきっかけに、太宰治の中で何かが変わりました。
「芥川龍之介」とノートに書き連ねたラクガキ・学生の黒歴史
太宰治の高等学校の時のノートが残されています。
それには「芥川龍之介」と何度も何度も書き連ねたラクガキがありました。
弘前高等学校1年次の時の「地鉱」のノートなので、これは芥川龍之介が亡くなった1927年の時の物です。
このラクガキが何月に書かれたかはわかりませんが、仮に芥川龍之介が亡くなる前だったら
講演よかったなぁ…。いつかきちんとお会いしたいなぁ…。
という思いで書いたものかもしれないし、仮に芥川龍之介が亡くなった後だったら
やはりすごい小説家だ。けれど、もっと作品を読みたかった…。
という若干の悔しさと尊敬の思いかもしれません。
そう考えるといつのものだったとしても、このいたずら書きからは太宰治の芥川龍之介への強い思いを感じることができます。
ところで、このノート「黒歴史」と良く言われますが、個人的には、
芥川龍之介をもじって考えた自分のペンネーム「小川麟一郎」(龍と麒麟は両方とも中国の四霊獣)を芥川龍之介と並べて、さらにその名前を筆記体でサイン練習しているこのページの方が、学生の黒歴史だと思う…。
【コラム】太宰治 創作の舞台裏(春陽堂書房) 日本近代文学館 編
いたずら書きノートの実物写真は、こちらにあります
先ほどはイラストでご紹介しましたが、本物の写真はこの本で見ることができます。
『太宰治 創作の舞台裏』は、日本近代文学館で2019年に開かれた特別展の展示を書籍で再現した本。
特徴は写真がたくさん掲載されていること。
中学・高校時代のいたずら書き満載のノートをみると、人間らしい太宰を感じつつ、これが世に残ってしまうなんて文豪は大変…と思ってしまいます。
生原稿やいたずら書きや黒歴史が多数掲載
その後の太宰治と芥川龍之介の関わり
芥川龍之介が亡くなってしまったので、太宰治と芥川龍之介にはこの後は直接の関わりはありません。けれど「芥川」に関する太宰のエピソードとして2つ、印象的な物をご紹介します。
芥川賞を懇願する太宰治
太宰治は1935年と1936年に「芥川賞」の候補に選ばれていますが、両方とも落選しています。
第1回目の落選時には、選考委員の一人、作家・川端康成の「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」という選評に激怒し、
小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。
太宰治「川端康成へ」より
という物騒な文章を発表し、問題になりました。
その後1936年に再び芥川賞の候補に選ばれた時には、選考委員の一人、作家・佐藤春夫に向けて
巻紙4メートルに渡る芥川賞を懇願する手紙
を送っています。
さらにその8日後には追い打ちで、「芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。(略)私を 助けて下さい」という手紙も送っています。
そして、第三回目の芥川賞選考前には、他の用件もありましたが、第一回目の時に揉めた川端康成に対して
巻紙5メートルにも渡る泣き落としの手紙
を送りました。
ここまでの激怒・懇願・泣き落とし(しかも一回揉めた相手に)をしても芥川賞にこだわったのは、その賞金が必要だったというのもありますが、やはり
芥川龍之介の名前がついた賞だから
という理由もあるかもしれません。
志賀直哉を非難し、芥川龍之介を持ち上げた太宰治最晩年のエッセイ
太宰治の最晩年の1948年ですが、『如是我聞』という作品があります。
日本の文壇に対する不満、特に文壇を牛耳る老大家として志賀直哉の実名を挙げて、批判するエッセイです。
「如是我聞」を読みたいと思ったかたはこちら!
不思議な作品の流れ
その第三回に、太宰治の『犯人』という作品を「つまらない」とする、志賀直哉の感想からはじまる部分があります。
私は偶然に、ある雑誌の座談会の速記録を読んだ。それによると、志賀直哉という人が、「二、三日前に太宰君の『犯人』とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……」
太宰治『如是我聞』より
これに対して太宰治の反論の文章が繋がります。「志賀直哉個人に対してでなく、その言葉に対して言いたい」という一応の注釈のあとですが、このように言っています。
作品の最後の一行に於て読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ才能と見做す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合でないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。けれども、傷つけられて喜ぶ変態者も多いようだからかなわぬ。
太宰治『如是我聞』より
ここで、太宰治は背負い投げを例に出して「どんでん返しのある文章は読後感が良くない」と言っています。志賀直哉は太宰治の『犯人』を「落ちがわかり過ぎててつまらない」と言っているので、ここはそれに反論する文章としては流れは問題ないです。
ただ、それに続く流れが不思議です。
あの座談会の速記録が志賀直哉という人の言葉そのままでないにしても、もしそれに似たようなことを言ったとしたなら、それはあの老人の自己破産である。
太宰治『如是我聞』より
「志賀直哉がそんなことを言っていたとしたら、それは彼の自己破産だ」と結論づけています。
「自己破産」は「自分でダメにしている」という言葉の雰囲気から「矛盾していておかしい」という意味だと思いますが、別に落ちがわかりすぎてつまらないと言うのは、そういう意見もあると思うので「自己破産」とまで言えないと思います。
彼を自己破産とするこの結論はどこからでてきたんでしょうか。
1927年9月 志賀直哉『 沓掛にて―芥川君のこと― 』からわかること
この流れを理解するために、芥川龍之介の20年前のエピソードが必要になります。
『如是我聞』の約20年前、芥川龍之介が亡くなって間がない1927年9月に志賀直哉が発表した『沓掛にて―芥川君のこと―』という文章があります。
当時、志賀直哉は芥川龍之介の作品についてこのように言っていました。
一体芥川君のものには仕舞で読者に背負投げを食わすようなものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。(中略)私は無遠慮に只、自分の好みを云っていたかも知れないが、芥川君はそれらを素直にうけ入れてくれた。そして、
志賀直哉『沓掛にて―芥川君のこと―』より
「芸術というものが本統に分っていないんです」といった。
この時、志賀直哉は「背負い投げを食わすような文章は良くない」と言っています。
今回の太宰治の反論は、この志賀直哉の20年前の言葉を引用しての文章です。
太宰治は「背負い投げ」という、20年前に志賀直哉が芥川龍之介を批判した時の言葉を使うことで、志賀直哉の矛盾を目立たせるようにしています。
『沓掛にて』の内容を考え合わせると、さきほどの図はこのようになります。
こうなると「背負い投げがいけない」という『如是我聞』の中の太宰治の言葉は、本当に思っているわけではなく、あえての嫌味だと考えられます。
ここで少し思うのは、この太宰治の反論は自分の『犯人』という作品の擁護からはじまっていますが、20年前の志賀直哉の芥川龍之介作品への非難を
芥川龍之介の作品を良くないと言ったあなたの理由は、その時々で矛盾していて理由になっていない
と、潰そうとしていることです。
『如是我聞』では、第四回でも
君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
太宰治『如是我聞』より
と、志賀直哉が芥川龍之介を理解していないと言っている部分があります。
正直『如是我聞』の反論の流れは無理をしている気がしないでもないです。
けれどこのエッセイを読むと、20年経っても太宰治の中で芥川龍之介は敬愛する小説家であり、志賀直哉の当時の言葉に一矢報いたい気持ちがあっての文章の流れだと思いました。
まとめ
接点はほぼないけれど太宰治に大きな影響を与えた作家として、芥川龍之介との関係についてまとめてみました。
芥川龍之介は太宰治にとって学生時代から最晩年まで敬愛する作家だったと思います。
それは学生時代のノートやいろいろなエピソード、そして最晩年の作品から見ることができます。
今回の文章は
・『太宰治の年譜』山内祥史(大修館書店)から多数参考にしています。
1927年5月の講演を太宰は聞いていないかも、という部分は
・『評伝 太宰治の問題点』(国文学 解釈と鑑賞745号・平成5年6月号)
を取り入れました。
▲文豪のエピソードを楽しく読みたい方には、こちらの「文豪どうかしてる逸話集」をオススメします。2022年10月28日現在、Kindle Unlimitedの対象にもなっているので、無料体験が出来る方はタダで読むことができます。
→と思ったら2022年11月13日現在、対象から外れているようです。残念…
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