太宰治『女生徒』解説&考察。有明淑の日記から取り出す少女の世界。冒頭の意味は?

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『女生徒』は、1939年(昭和14年)に発表された、太宰治の短編小説です。
女子学生の一日を綴った作品で、川端康成はこの作品を次のように激賞しました

『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運なのである。そのために讃辞が或いは多少の誇張にわたるのは、文学を愛する者の当然の心得である

当時は知られていませんでしたが、この作品は太宰治のファンである有明淑ありあけしずという女性の日記を元にして作られた作品でした。

今回は作品の成り立ちを紹介し、太宰治が付け加えたオリジナルの冒頭と終わりの部分に注目します。
そしてそこから「太宰治が小説として日記から取り出したかったこと」について考えようと思います。

この記事がおすすめな人
  • 『女生徒』の成り立ちについて知りたい人(『有明淑の日記』の紹介)
  • 『女生徒』と『有明淑の日記』の変更点について知りたい人
  • 『女生徒』で太宰治が取り出したかったテーマについて考えてみたい人
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タップできる目次

『女生徒』作品概要

作者太宰治
発表年月1939年(昭和14年)4月
初出雑誌『文学界』
ジャンル短編小説

太宰治『女生徒』のあらすじ

太宰治の『女生徒』は、ある女生徒の一日の出来事と心情が、彼女自身の言葉で語られている物語です。

セーラー服のシルエット

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。だけど灰色。虚無。醜い後悔ばっかり。

女学校に行く途中も、行ってからも、帰りもいろいろな事が頭に押し寄せてくる。

労働者は私に向かって口にだせないようなことを言うし、雑誌では私たちに文句を言っているし、けれどどうしたらいいのかは教えてくれないし、女の人は汚い。今日の私の持っている風呂敷は綺麗。

お昼休みはホント楽しい。夕焼けの空は神々しいほど美しい。

お母さんの望む娘になりたいし、なりすぎるのも厭。
お風呂に入って、いつの間にか大人のからだになっていくことに気づく。
お人形みたいなからだでいたいのに。

星を見ていると、二年前に亡くなったお父さんのことを思い出す。

大人になりきるまでの長い厭な期間を、どう暮らして行ったらいいのだろう。

顔を隠して眠りにつく。
それでは、おやすみなさい。

『女生徒』の作品の成り立ち 有明淑の日記を元にして

青森県近代文学館 資料集第一輯『有明淑の日記』

こちらが青森県近代文学館が出版している資料集有明淑の日記です。

太宰治の奥様の津島美知子さんは、「回想の太宰治」の中の『女生徒のこと』についてこのように言っています。

奥様が執筆した太宰治本

濃やかな愛情と明晰な目がとらえた人間・太宰治ーー太宰治は、文字通り文学のために生まれ、文学のために育ち、文学のために生きた「文学の寵児」だった。彼から文学を取り除くと、そこには嬰児のようなおとなが途方に暮れて立ちつくす姿があった。戦中戦後の10年間、妻であった著者が、共に暮らした日々のさま、友人知人との交流、疎開した青森の思い出など、豊富なエピソードで綴る回想記。(版元ドットコム 紹介より抜粋)

「女生徒」は 若い女性の愛読者の日記に拠っている。(略)
彼はこの日記を思いがけず得たことを天佑と感じ、早速この日記をもとにして小説を書き始めた。

津島美知子. 回想の太宰治 (講談社文芸文庫)

ここに書かれた「若い女性の愛読者」が、当時19歳の有明淑です。
彼女は太宰治のファンで1938年4月30日から8月8日までの日記を太宰治に渡しました
太宰治はこれを読み、作品に仕上げました。

この資料の校閲の相馬正一氏によると、『女生徒』と『有明淑の日記』は

一部分まで活用したものを加えると、9割近くが日記に依拠していた

ことがわかっています。
9割といえば大部分です。そこで、『女生徒』を太宰治の作品と位置付けていいのかが問題になります。

『有明淑の日記』にはないオリジナルな部分

9割が日記に依拠していたと言われる『女生徒』ですが、日記にはないオリジナルな部分が小説にはあります。

S子さんの日記は春から夏までであるが、太宰の『女生徒』は初夏の一日の朝から夜までで、書き出しと終りの部分は全くS子さんの日記には無い

津島美知子. 回想の太宰治 (講談社文芸文庫)

津島美知子さんがおっしゃっているように、書き出しと終わりの部分は太宰治のオリジナルです。

そこでこの記事では、オリジナルである書き出しと終わりの部分に特に注目します。
そこには太宰治が日記を小説にするにあたって、取り出したかったことが書かれていると思われるからです。

※ご紹介した『有明淑の日記』は青森近代文学館で購入することが出来ます(郵送も可)
青森県近代文学館刊行物の購入方法のページ
(販売している資料集の概要は上の「青森近代文学館資料集」のボタンで確認できます)

冒頭と終わりの部分に書かれていること

太宰治のオリジナル部分、書き出しと終わりとは、どんな部分でしょう。
それは、一日を過ごす少女の起床と就寝の部分です。

少女の起床

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっとふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われ(略)とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、(略)濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。

少女の就寝

 私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。顔を覆って、じっとしている。

ここからは、実際の小説の本文と照らし合わせをしつつ、個人的な考察をしています。
最後までのネタバレになりますのでご注意ください。

太宰治『女生徒』考察

結論としてこの作品は、

太宰治が有明淑の日記からただ列挙しただけではなく、『子供から大人に変わる途中にある、普通の少女が持つ苦しさの本質や理由』を理解し、小説になるようにまとめ上げたもの

だと思います。それは

太宰治が追加したオリジナル部分、女生徒の起床と就寝

に現れていて、

有明淑の日記に書かれた内容と、太宰治の描いた起床と就寝の部分が中身で呼応している

ように思えることから考察しました。

ここからはその理由について細かく見ていきます。

自分なりに考察してみたら、自分の青春具合が試されている小説な気がしてきました

『女生徒』と『有明淑の日記』の違い

まずは、『女生徒』と『有明淑の日記』の違いについて確認します。
この2つには、違いが加えられている部分があります。
人物のキャラクターについてと、出来事の期間についてです。

キャラクターの変化

女生徒と有明淑の違い

女生徒と有明淑の違いをまとめてみました。

女生徒は有明淑より、年齢設定が若いです。
なので、有明淑の方が女生徒よりも「女性として成熟しつつある」感じがあります
実際、友人の中には結婚している人もいるようです。

また、女生徒には名前がありません
二人ともお父さんを亡くしていますが、有明淑の日常が裕福な感じがするのに対して、女生徒はお父さんがいないことに、経済的な面でも不安を感じている部分があります
この違いは、「有明淑の特殊な面を消して、女生徒を一般的な人物にしている」ように思います。

3か月の出来事が1日でまとめられていること

そして、『女生徒』では、有明淑の3か月の日記の部分部分を1日の出来事としてまとめています。
そのため、女生徒の日常は目まぐるしく変わり、女生徒の連想もどんどん移り変わります。

これらの変更で、女生徒は有明淑よりも

感受性が非常に高く、女性として成熟していない、一般的な少女

という存在として、設定されていると思います。

女生徒の土台の無さ・思想の洪水

次に、小説の主人公「女生徒」について見て行きます。

先ほども言った通り、女生徒は「感受性の高い人物」として設定されています。
なので、良いと言ったかと思えば悪いと言ったり、楽しく過ごしてたかと思うと寂しくなったり、気持ちの移り変わりも早く、しっかりとした土台がまだありません。
本を読んだ時にも、土台のなさが現れています。

私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。

このような自分の状態を、彼女は

ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。

と言い、日常では

煩瑣はんさ堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水

を感じています。

女生徒の昔の状態

両親と子供のシルエット

ただ、女生徒は昔からこの「思案の洪水」の中に居たわけではありません。
小さい頃のことを回想し、こう言っています。

せんの小金井の家が懐かしい。胸が焼けるほど恋しい。あの、いいお家には、お父さんもいらしったし、お姉さんもいた。お母さんだって、若かった。(中略)本当に楽しかった。自分を見詰めたり、不潔にぎくしゃくすることも無く、ただ、甘えて居ればよかったのだ。なんという大きい特権を私は享受していたことだろう。しかも平気で。心配もなく、寂しさもなく、苦しみもなかった。

子供のころの女生徒には、心配も寂しさも苦しみもありません。
では、何が女生徒を変えたのでしょう。

女生徒の世界が変わった理由

女生徒の世界が変わった理由① 父親の不在

女生徒特有の理由としては、父が亡くなったことです。
子供の頃の状況は、父母揃っている世界で完成していました。
しかも母親は、父が亡くなったことで女生徒に、

お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。

とたまに感じさせる存在になっています。
女生徒の「子供の世界」は、父という一本目の柱を失い、不安定になっています。

女生徒の世界が変わった理由② 女性の身体になってきたこと

肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。

女生徒は大人の身体になっていきます。肉体は本能と結びつきます。
それは、今までの自分を消してしまうものと言っています。

本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。お母さん、お父さんと呼びたくなる。

本能について考える時に女生徒が

「お母さん、お父さん」

と呼びたくなるのは、その2人が「本能」によって消された子供の頃の世界を現わしているからです。
身体の変化も、女生徒の子供の頃の世界が消える原因になります。

女生徒の世界が変わった理由③ 世間は修身とは違う

学校の修身と、世の中のおきてと、すごく違っているのが、だんだん大きくなるにつれてわかって来た。学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。変人と言われる。

修身は道徳教育のことです。ここでは、女生徒に世の中が見えるようになってきたということが書かれています。これは父と母で出来上がった子供の頃の世界では見えないことです。
なので、世間も「子供の頃=修身中心の世界」が、消えていく理由の1つと言えます。

新しい世界を受け入れられるか

地球儀

これらが、女生徒の子供の頃の感情・理性を持った自分が成り立たなくなってきている理由です。
それでは新しく広がってきた「本能」や「世間」は女生徒にとって受け入れられるものでしょうか

「本能」について

まず、「本能」についてですが、女生徒はバスや電車の中で、女生徒より年上の女性たちと出会います。バスや電車は自動的に進む事から、「自動的に大人になってしまう女生徒」の未来を感じさせます

バスの中で、いやな女のひとを見た。えりのよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪をくし一本に巻きつけている。手も足もきたない。それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。それに、ああ、胸がむかむかする。その女は、大きいおなかをしているのだ。ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。雌鶏。

電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。ああ、汚い、汚い。女は、いやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。

女生徒は「本能」の世界を拒んでいるように見えます。

「世間」について

強く、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、はっきり区別して置いて、ちゃんちゃん気持よく物事に対応して処理して行くほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず、韜晦とうかいしないで行くほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。

世間は自分と反対にあるものと考えています。
受け入れたほうがいいと思っているけれど、簡単に受け入れられない状態のようです。

女生徒は新しい世界をまだあまり受け入れられないでいます。

女生徒の今の状態① 新しい土台が作れていない

からっぽのカップ

今の女生徒は「子供の頃の新しい感情・理性」が無くなり、それに変わるものが作れていない状態です。
つまり、女生徒の中は今はからっぽです。
これは、「ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。」という話と一致します。

対抗できる思想がない状態なので、外からの思想は入り込みやすいです。
これが「思想の洪水」という状態だと思います。
女生徒はこれらのことを厭だと思っています。

現在の自分1

女生徒の今の状態② 厭だと思ったものがすでに自分の中に少しある

けれども、この問題の難しいところは、そのような厭だと思っている部分が、すでに自分の中の一部にあることです。

そう思っていながらも、私はそんな気持を、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんを可愛い可愛いと言って頭を撫でてやったり、まるで嘘ついて皆をだましているのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清純かも知れない

このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。よごれて、恥ずかしいことばかりだ。

金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。

この状態が辛いので、女生徒は世の中に聞いてみようということも考えます。
けれども世間はすぐになんとかなる方法は答えてくれません。

私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。(略)当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。

しかも、助けになるどころか、女の身体になっていく少女をからかう人までいます。

駅近く、労働者四、五人と一緒になる。その労働者たちは、いつもの例で、言えないような厭な言葉を私に向かって吐きかける。私は、どうしたらよいかと迷ってしまった。

思想の洪水はどうしようもなく、それをすぐに直す方法もわかりません。
誰も助けてくれません。そしてその厭なものは自分の中にも入り込んできています。
そんな自分も厭です。
このような状態にいるのが、今の女生徒です。

現在の自分2

「わるいのは、あなただ。」「もう、ふたたびお目にかかりません。」

『女生徒』という作品の中には、印象的な二つの「呼びかけ」とも言える感情が強く感じられる部分があります。

きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

いきなりあなたと言われてどきっとしますが、話の流れを読むと「毎日苦しく暮らしている私達に、あそこの山までいけば楽になると言って、今の苦しい状態の解決方法を教えない人」ということになります。なのでこれは「世間」に対しての非難ということになります。

それを「あなた」と呼びかけることで、「苦しい状態の私たちに何もしてくれない人には、これを読んでいるあなたも含まれるのだ」という気持ちが感じられます。強い響きです。

私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。

相手が目の前にいない状態での疑問形なので、これもどきっとしますが、まだいない恋の相手の王子に対する呼びかけです。恋愛なので「本能」に関係する言葉です。
それを、「もう、ふたたびお目にかかりません」と言っている事から、これは「本能」に対しての決別の言葉かもしれません。

ただこちらは、「王子」や「シンデレラ」という言葉に憧れが感じられるので、「世間」に対してほど強い言い方ではないです。

このように、この2つの印象的なフレーズでも「世間」と「本能」が女生徒の大きな問題だという事を現しています。

現在の女生徒が抱える問題・まとめ

ここまでで、今までに見た「現在の女生徒が抱える問題」をまとめてみます。
この後に使いたい部分を強調し、数字をつけています。

女生徒は子供のころは「心配も寂しさも苦しみもない」落ち着いた世界にいました。
けれど、

勝手に進んでいく」(②)

肉体の変化・世間が入り込んでくる事・父の死などから「今までの理性や感情」が消えていくことを感じています。
そのため、自分という物が無いと感じ、

からっぽ」(③)

と思っています。なんの基準もないので

思案の洪水」(①)

に押し流される状態です。
これは非常に疲れるので、世の中にもなんとかする方法を訪ねたいのですが、世の中は「じきによくなる」としか教えてくれません。
それどころか、大人になっていく自分に下卑た言葉を掛けたりして、さらに追い詰めてきます。

そして、醜く汚いものと感じている「本能」や「世間」ですが、

それが自分の中にすでに少しある」(④)

ということも感じていて、ますます堂々巡りです。

就寝の描写・目覚めの描写の意味

顔を隠す少女

ここまでで、女生徒の今の問題を確認し、

・「思案の洪水」(①)
・「勝手に進んでいく」(②)
・「からっぽ」(③)
・「それが自分の中にすでに少しある」(④)

の4つのキーワードを取り出して見ました。

それを冒頭・最後の部分と比べて、まとめに入ります。

私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。顔を覆って、じっとしている。

女生徒が夜眠る時の描写です。
「顔をぴったり覆って」目を隠しているのは、普段はあまりにも多くの情報の奔流が彼女にはあり、それを見ないようにしなければ落ち着けない、少女の状態を表しています。
先ほどのまとめで言うと①の部分です。

さらにこのしぐさは、冒頭の目覚めの部分「かくれんぼ」と繋がります。

襖の裏に隠れる少女

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっとふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

隠れようとしていても、見つかってしまう。
勝手に変化がやってくることを現わしていると思います。まとめの②に当たります

マトリョーシカ

箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。

自分が何なのかわからない女生徒の中身は「からっぽ」です。
まとめの③にあたります。

身体に沈む物

パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばんみにくい。

でんぷんと上澄みの表現です。
女生徒の中には、すでに自分の中に入ってきていると思う濁った部分があります。
まとめの④にあたります。

まとめと感想

このように太宰治の『女生徒』は、有明淑の日記からとりいれた部分の多い小説ですが、物語の冒頭と最後の太宰治のオリジナルな部分は、

・女生徒が今感じている悩み
・女生徒が辿ってきた過程

を理解して感じ取っているイメージになっています。
なのでこの作品は、

太宰治が有明淑の日記をただ列挙しただけではなくて、彼女の日記から感情を掬い上げ、小説として『子供から大人に変わる途中にある、普通の少女が持つ苦しさの本質や理由』に気づき、まとめ上げたもの

とは言えると思います。

この女生徒の「思案の洪水」は、いつ解消されるのでしょう。
世間がその方法を教えてくれないのですから、それはすぐに解消されることはないです。

彼女は今、子供のころの感情・理性が消えた後に、本能・世間なども含まれる新しい感情を作り始め、それがでんぷんのように下に溜まり出した状態です。
たぶん、彼女の中に溜まってきたそれらが女生徒の中で埋まった時に、思案の洪水は止むのだと思います。
からの部分が無くなった以上、そこに押し寄せるものは無くなり、新しい感情の規範が自分の中にある以上、情報が取捨選択されるようになるからです。

夕焼け空

ただ、そのようにからっぽの身体が埋まった時には、女生徒が今は感じることのできる、夕焼け空を見て美しく感じる感受性の鋭さはどうなるんでしょうか。

これは、この空の色は、なんという色なのかしら。薔薇。火事。虹。天使の翼。大伽藍がらん。いいえ、そんなんじゃない。もっと、もっと神々こうごうしい。

夕焼け空を見てこのように思う豊かな想いも、もしかしたら消えてしまうんでしょうか。

川端康成はこの作品を激賞した際に、「この女生徒は可憐で、甚だ魅力がある。少しは高貴でもあるだろう」と言っていますが、これは主人公が今感じている苦悩の感覚からは少し離れた感想だと思いました。
この小説は読む年代によって、変わる小説だと思います。
主人公に寄り添えるか、または、少し上の年代の感想としてあの時はこうだったと振り返るかで、感想がかなり変わってくると思います。

私は最初

大変だねぇ…

ぐらいで読んでいましたが、じっくり考察しながら読んでみると

うわっ……、大変…….

のような気持ちに変わりました。

青春は大変ですね

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太宰治『女生徒』関連作品

『女生徒』に関連する作品を紹介します。

『School girl』九段 理江

第166回芥川賞候補作になった九段理江の『Schoolgirl』は、太宰治の『女生徒』を再解釈した作品です。文藝春秋の書籍紹介によると「社会問題に高い関心を持つ娘、内向的な母。二人を再びつなげるのは「女生徒」――? 太宰の名作を鮮やかに再解釈する手腕を堪能してください。」とのことです。

太宰治短編小説集(映像)

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