『きりぎりす』は1940年に発表された、太宰治の短編小説です。
成功して変わってしまった芸術家の夫を非難し、清貧・反俗を訴える妻の主張が描かれています。
妻は夫が変わってしまった理由について知りたがっています。しかし、答えは出ません。
この作品はすべて女性の一人称・独白体です。
なので本来は妻がわからない答えは書かれることはありません。
でもこの作品には、その理由が描かれています。この一人称にはカラクリがあります。
この記事ではその考察を行います。
あわせて、最後の場面の「こおろぎ」がなぜ「きりぎりす」になったかについても解説します。
太宰治『きりぎりす』作品の基本情報
この新潮文庫の表紙、素敵だけど間違っていると思うんです…。ここはコオロギのはず。
コオロギとキリギリスについては、後で書きます。
『きりぎりす』概要
作者 | 太宰治 |
発表年月 | 1940年(昭和15年)11月 |
初出 | 新潮 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 俗と反俗・夫婦のすれ違い |
太宰治『きりぎりす』あらすじ
おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。私は19で売れない画家のあなたと結婚して、もう24になります。私は、あなたを、この世で立身なさるおかたとは思わなかったのです。死ぬまで貧乏で、一生、俗世間に汚されずに過して行くお方だとばかり思って居りました。私でなければ、わからないのだと思っていました。それが、まあ、どうでしょう。急に、何だか、お偉くなってしまって。
あなたは変わりました。今のあなたは清貧の影などありません。あなたは、ただのお人です。これからも、ずんずん、うまく、出世をなさるでしょう。くだらない。この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。
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ここからは、実際の小説の本文と照らし合わせをしつつ、個人的な考察をしています。
細かいネタバレになりますのでご注意ください。
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太宰治『きりぎりす』考察
まず、『きりぎりす』の今までの読まれ方を見て行きます。
『きりぎりす』は妻の語る「俗」と夫の「反俗」が主要なテーマと捉えられてきました。
太宰治がこの作品を発表した当時の意見を、少し難しい言葉ですが引用します。
平野謙は<生粋の反俗精神>をみ、<哀婉清楚な行文の裡に作者の気魄がしみてゐた。今日の佳作>(「文芸時評ー自己革新について」「都新聞」昭15・10・31)だと高く評価する。高見順は、平野の意見を批判し、<この小説は、反俗精神を書いたものといふより、さうした女のエゴチズムの悲劇を書いたもの>(「反俗と通俗ー文芸時評」「文芸春秋」昭15・12)だとする。
「別冊國文学・NO7 太宰治必携」三好行雄・編(1980年)
この「俗と反俗」をテーマと捉え、その上で「俗と反俗のどちらに共感できるか」という点で意見が分かれています。
また、太宰自身が作品集のあとがきでこの小説について書いたことも、この読み方を助長する原因になっているようです。
自分もこんな事では所謂「原稿商人」になってしまうのではあるまいかと心配のあまり、つまり自戒の意味でこんな小説を書いてみた。(中略) 私の心の中の俗物根性をいましめただけの事なのである。
あづみ書房刊『玩具』あとがきより
「俗と反俗」だけをテーマとして考えると、結局は、妻の主張に対して「俗」が正しいか「反俗」が正しいかを考えるという答えのない感想になりがちです。
それも読書としてはいいですが、太宰は女性一人称の裏に、別の人物の行動と理由を描いていて、そこにはこの作品の別のテーマもあると思います。
今回は妻に比重を置くのではなく、妻の言葉の中に現れている、
夫の行動や移り変わり
を確認し、さらに「この文章が何のためのものなのか」を考える事で、この作品を違った方向から考察していきます。
夫である「あなた」の考察
では「あなた」はどのような人物として描かれているでしょうか。
夫の過去と現在の姿と、その違いの理由をみていきます。
過去のあなた・現在のあなた
妻は夫を「嘘ばかり」で俗の象徴のように言っています。
夫のあまりの変わりように、妻の好きな反俗の夫の姿は見せかけだったと結論づけています。
けれど、夫の反俗は本当に見せかけだったのでしょうか。
淀橋のアパートで暮した二箇年ほど、私にとって楽しい月日は、ありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは、展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。
これを見ると、結婚後2年は、夫は確かに反俗の人だったと言えます。妻も幸せだったと言っています。
それが今は俗的に変化しています。
「あなた」は結婚後2年は、妻の望む反俗の人だった。その後、俗的な人に変化した
「あなた」が変わってしまった理由
ではなぜ、「あなた」は変わってしまったんでしょうか。
妻はわかっていないことですが、夫の行動をみることで、その理由を探っていきます。
【夫の行動】
- 時々、私を市内へ連れ出して、高い支那料理などを、ごちそうする
- 泊りで出かけた翌日は、何のうしろ暗いところも無かったという事を示すために何があったかを細かく言う
- 妻と一緒に岡井先生の家に行った帰り道「ちえっ!女には、甘くていやがら」と言う
- ラジオを「私の、こんにち在るは…」から始める
- 毎朝、洗面所で、おいとこそうだよ、と大声で歌う
夫の行動のいくつかを抜き出しました。
上の3つは解りやすいです。
妻にごちそうしたり、泊りでも妻に何もなかったと言い訳したり、他の男性が妻を褒めたら不機嫌になったりしています。
つまりこの夫は、現在、妻のことが好きです。
4番目に挙げた「私の、こんにち在るは…」は作品の最後の場面ですが、描かれていないその先に予想されるのは「売れない時代を支えてくれた、妻のおかげ」という感謝の言葉でしょう。
毎朝、洗面所で、おいとこそうだよ、なんて大声で歌って居られるでは、ありませんか。
さらに注目したいのは、夫の俗人性が出ていると妻が感じている、夫の「おいとこ節」です。
玉田琴乃氏は、【太宰治「きりぎりす」論 : 昭和十五年に登場した「あなた」と「私」】のなかで、「おいとこ節」に注目し、『日本民謡集』(町田嘉章、浅野健二編 岩波書店、1960)の宮城の項目にある「おいとこ節」を引用しています。
おいとこそうだよ 紺の暖簾に 伊勢屋と書いたンよ お梅女郎衆は十代伝わる 粉屋の娘だンよ あの娘はよい娘だ あの娘と添うなら 三年三月も 裸で茨も背負いましょ 水も汲みましょ 手鍋もさげましょ なるたけ朝は早起き 上る東海道は 五十と三次 粉箱やっこらさと担いで 歩かにゃなるまい おいとこそうだンよ
岩波文庫『日本民謡集』(1960年)P68 おいとこ節より引用
「おいとこ節」は、意中の女性と添い遂げられるなら、必死で働くと言っている男性の唄です。
玉田氏はこの部分に関して
また、「私」を「あの娘」に重ね、「きりぎりす」の夫婦を歌詞の「二人」だと捉えることも可能だろう。「裸で茨も背負いましょ 水も汲みましょ 手鍋も下げましょ」という歌詞からは、「あの娘と添う」ためなら、自らの労力を惜しまない男の態度がうかがえる。だとすれば、この歌は「あなた」が「私」を愛しているというメッセージのようでもある。
玉田琴乃 太宰治「きりぎりす」論 : 昭和十五年に登場した「あなた」と「私」 2022 学習院大学大学院日本語日本文学
と、述べています。
夫は骨董屋の但馬の紹介で、妻のことを何も知らずに結婚しています。なので2年間は、夫は結婚前と同じ様にお金にこだわらず過ごしました。
けれど、その間妻に献身的に世話をされることで、妻を大切に思うようになり、妻に楽をさせたいお金が欲しいと、俗的な人間に変わったのだと思います。
夫が毎朝機嫌よく歌っている「おいとこ節」には、その気持ちと、さらに今はそれをやり遂げたという自信が出ています。
このような夫の描写から、夫が俗物的になったのは、妻を好きになったからという理由があると考えます。
夫は現在は俗物的な人物であるが、そう変わった理由には、妻が好き、妻にいい暮らしをさせたいという思いが作中に隠れている
考えてみると、但馬が夫に妻を紹介したのはこの効果を狙ってのことかもしれません。
彼は夫の絵の才能を買っています。けれどこの夫は才能がありながら、絵を売ることに対しての真剣味が足りません。
結婚させれば、生活の為にも絵に売る事に力を入れ始めるはず…。
その目論見が当たったのだと思います。
反俗を愛する妻が夫に献身的に尽くす事により、夫は妻を大切に思うようになる。
そして妻にラクをさせるためにお金を稼ぎ、夫は俗的に変化する。
『きりぎりす』は、「反俗であってください」という妻の主張だけでなく、その裏に、「妻の為に俗になった」夫の姿が感じられる作品です。反俗であり続けることの困難さも描いています。
妻は作品の中で「なぜ夫が変わってしまったのかわからない」と、疑問に思い悲しくなっていますが、その理由は妻の献身性にありました。この作品はある意味、「悲喜劇的」な構造になっています。
二人の関係は、夫の反俗的なところが好きだった妻の夫への献身が、夫を俗的に変えてしまうという「悲喜劇的」なところがある
この「妻の語り」は何のために書かれているか・予想される夫婦の未来
ここまで、過去と現在の夫の姿と、妻との関係について読み解いてきました。
次に、「この文章はそもそも何なのか」ということを考え、この夫婦の行き先について考えてみます。
文章の書かれた目的・妻は気持ちを伝えたい
そもそも、この文章(妻の語り)は
どのような形のもので、何のために語られている
のでしょうか。
作品の中には会話では使われることのない、丸括弧が使われています。なのでまず、この語りは実際に話しているというよりも、書かれている「文章」だとわかります。
妻から夫への呼びかけです。
「お別れ致します」から始まり、反俗であったあなたが俗になってしまったことへの非難が延々と続いています。
つまり、妻が夫に自分の気持ちを伝えるために渡そうとしている「手紙」と考えるのがいちばん自然と思います。
冒頭付近では「最後までお聞きください」と、なんとか夫に気持ちを伝えようとしている妻の姿を見ることができます。
・この作品全体は、妻が夫に気持ちを伝えようとした手紙
・冒頭付近には自分の気持ちを夫に伝えたいという妻の思いが出ている
妻の気持ちは夫に伝わったのか・コオロギとキリギリスの謎を解説
ただ、最後まで読むと、妻の「夫に伝えたい」という気持ちは曖昧になってきていると思います。
その理由は、物語最終部にある「キリギリスとコオロギ」です。
私は、あの夜、早く休みました。電気を消して、ひとりで仰向に寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。
詳しく見て行きます。
背筋の下で小さな声で、けれど懸命に啼くこおろぎに対して、妻は「この世の時勢に反して清貧について懸命に語っている」、かぼそい自分の姿を重ね合わせたのだと思います。
よくわからないのはその後で、コオロギがキリギリスに変わっています。
実は、今の言葉では「コオロギ」は夜に鳴く黒い虫を指しますが、古語では「キリギリス」が夜に鳴く黒い虫を指しています。年代と共に虫の名前が変わってしまったのです。
この場面の時間帯は夜です。今でいうキリギリスは夜には啼かないので、ここの場面で実際に鳴いているのは、今でいうコオロギです。
この言い直しは、黒い虫をコオロギではなくキリギリスと言い換えることになぞらえて、「現代の価値観」と決別しようとしている妻の気持ちを表現しているのだと思います。
この世の時勢ではこの虫は「こおろぎ」と言うのが正しいです。それを昔の言い方の「きりぎりす」に言い換えることで、「今の時勢に沿わない選択をする」ことを強調しています。
妻は「きりぎりすの声=清貧」を背中に納めます。「清貧」は今の世に合わない生き方ですが、彼女はそれを大切に持ったまま生きたいと願います。
コオロギがきりぎりすになることについては、以前にnoteでもまとめています。
妻の語りの内容を見て行きましたが、ここで、これが夫に渡す手紙だということを思い出して見ましょう。
説明不足だと思いませんか?
先ほどのように考えれば、コオロギがキリギリスに変わる理由は通じます。けれど一般的にはこの部分を読むとわけがわからないと思います。
つまり妻はこの部分では、夫に伝えたいという気持ちよりも、自分の気持ちの高ぶりが強くなり感情的になりすぎています。
また、私が小説を読んで感じた事をあなたに、ちょっと申し上げると、あなたはその翌日、すましてお客様に、モオパスサンだって、やはり信仰には、おびえていたんだね、なんて私の愚論をそのままお聞かせしているものですから…
上の引用のように、妻は、夫よりも小説や文学に親しんでいる人間として描かれています。
コオロギとキリギリスの例えは、妻にはわかっても夫にはきっとわかりません。
このような手紙を妻は夫に手渡すでしょうか。
妻はいままでも夫に何かを話した時に「ふふんと笑われ」相手にされないことがありました。
ちなみにこの「ふふん」は「何馬鹿な事言ってるんだ」よりも「なんか一所懸命にわけのわからないこと言ってるかわいい」という夫の気持ちと著者は思うのですが、妻からしてみれば、そのように笑われて相手にされない経験がある以上、この、伝える内容が支離滅裂になっている手紙(しかも長くなりすぎ)をそのまま渡すことはできないと思います。
なのでこの手紙は、結局夫に渡されることはなかったと筆者は考えます。
もちろん、性格が変わりつつある夫に、この手紙を渡したとしてもどれくらいの抑止になったかは疑問です。
けれど渡されないと妻の思いに夫は気づくことすらありません。夫は今の自分に自信を持っています。
この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。
そして妻も、これだけ振り返ってみても自分の間違っている点は見つかりませんでした。
夫を俗の理由を理解する、または自分の間違っている点を探すことができれば、夫婦はまた近づけたと思います。
しかし最後の場面でも、清貧を大切し、俗と決別しようと決心した妻の姿を描いています。
妻と夫は考えが離れたままです。
手紙は渡されることはなく、妻は夫を理解できず、夫はさらにお金を稼ぐ方向に向かうことが予想されます。
・手紙の最後では、妻は感情が極まり、きちんと伝えることよりも、感情的になってしまっている
→ 夫に手紙は渡されない
→ 夫が反俗に戻ることはもとより、妻の気持ちに気づくことすらない
→ 気持ちは伝わらない。すれ違いは続く。
太宰治『きりぎりす』まとめ
『きりぎりす』は妻の「反俗精神」の主張に同意できるかできないかで評価されがちな作品です。
ただ、同時代の意見が分かれていることをみてもわかるように、この作品は「俗」と「反俗」のどちらが正しいかという答えを求める描き方はしていません。
夫が妻の為に儲ければ儲けるほど、妻の気持ちは離れて行きます。
この作品は妻の主張だけでなく、その裏に夫の行動を描いているというカラクリがあります。
また、「この妻の語りは一体何のためのものか」ということを考えることで、単に「俗と反俗」について考えるだけでなく、いつまでも反俗であることの難しさ、相手のためを思っての行動であるのに2人の関係を変えてしまう悲喜劇性、すれ違うままの未来の予測、などについても読み解くことができると思います。
太宰治の『きりぎりす』は、「俗と反俗について考える」、ということだけではなく
- 反俗でいることの難しさ
- 相手のためにする行動が、関係をうまくいかなくする悲喜劇性
- 端から見ると理想的な夫婦でもわかり合えていないという、人間同士のすれ違い
を読むことができる作品
読み返したいと思った時はこちら!
追記 『東京八景』に見る俗・反俗の答え
『きりぎりす』ではあえて太宰は答えを出していませんでしたが、「俗と反俗」については、近い時期に発表された『東京八景』(1941年1月初出)に、当時の太宰の答えがでていると思うのでご紹介します。
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。
『東京八景』太宰治
『東京八景』では、「家は守る、けれどお金持ちにはならない」と太宰は宣言しています。
家や生活を守るためにお金が必要な俗世界と、俗に染まらない芸術世界と、そのバランスを取ることを決意している文章です。
『きりぎりす』は「俗物根性を戒めた」作品と太宰は言っていますが、実際に太宰が考えていたのは「(行き過ぎた)俗物根性への戒め」かもしれません。
それは、この『東京八景』の「出世はしない、けれどこの家は守る」という言葉に現れています。
『東京八景』を読みたいと思ったかたはこちら!
他作品へのつながり
『東京八景』以外にも、太宰治の『きりぎりす』と関連づけされそうな、他の作品をご紹介します。
駈込み訴え
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
『きりぎりす』よりも少し前の1940年2月に発表された『駈込み訴え』も、『きりぎりす』と同じ一人称の語りの小説です。
この中でも太宰は、主人公の語りの中に、主人公の見えないことを忍ばせています。
太宰治『駈込み訴え』解説考察|生れて来なかったほうが、よかったの意味
如是我聞
所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
これは1948年、太宰が死の間際まで連載していた随筆、『如是我聞』の一部です。
ここで言う「彼ら」「あの者」は、太宰より年上の、文壇の老大家のことを指しています。
最初『如是我聞』を読んだとき、私は、
なんで奥さんと子供を可愛いと思っちゃいけないんだろう…?
と、不思議でした。けれど、『きりぎりす』を読み返してわかった気がします。
『きりぎりす』の「あの人」は、奥さんにベタ惚れな雰囲気があります。
「おいとこ節」を機嫌良さそうに唄っている雰囲気からも、「自分が稼げるようになったので奥さんを幸せにできている」と感じている満足感が出ています。
つまり、奥さんと子供に対して可愛いと思った時の夫は、「お金を稼ぎたい」という俗な欲求に駆られがちになる、ということです。
それは「世間に認められなくても」とか「芸術を突き進む」という態度から離れることに繋がります。
『如是我聞』は太宰の最晩年の随筆です。太宰は最期まで、俗と芸術のバランスについて考えていたと思います。
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