『黄金風景』は太宰治の短編小説です。
長さは原稿用紙8枚の超短編です!
本当に短い文章ですが、書き出しの暗さから最後に美しい光の風景に劇的に変わる、長さ以上に満足感のある小説です。
この小説の冒頭で病んでいた主人公に、
めらめら火が燃えているようにしか感じられなかった
と描写されている夾竹桃は、実際に太宰が植えた木が今でも千葉県船橋市に残っています。(2022年7月17日撮影)
咲いてはいたけどまだちょっと早かった…。
→次に行ったときはなんかしおれてた…(2022年8月7日)
→太宰治のゆかりを訪ねる文学散歩の記事も書いています
太宰治ふなばし文学散歩・夾竹桃と青桐、モチーフ満載の九重橋を訪ねました
花がわかりにくいので、素材サイトから夾竹桃のアップも。
ところで、この作品には2か所で「負けた」という言葉が登場しています。
ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、
私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
負けた。これは、いいことだ。
この主人公の反応の差、気になりませんか?
一回目の「負けた」は、「ちぇっ」っと言っていてくやしい感じです。
二回目の「負けた」では、号泣して、けわしさが消え去り、さらに負けが「いいこと」と言っています。
なんでこんなに反応が違うんでしょう。二つの「負けた」には違いがあるんでしょうか。
このブログでは『黄金風景』の主人公の心の動きを追うことで、この二つの「負けた」の違いについて考えます。
また、その後、冒頭のプーシキンのエピグラフについても、考えてみようと思います。
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太宰治『黄金風景』基本情報
『黄金風景』概要
作者 | 太宰治 |
発表年月 | 1939年(昭和14年)3月2日、3月3日 |
初出 | 國民新聞 |
ジャンル | 短編小説 |
『國民新聞』主催の「短篇小説コンクール」当選作品です
『黄金風景』あらすじ
私は子供のとき、お慶というのろくさい女中をいびった。そして今の私は、家を追われて病と闘いながら暗い気持ちで暮らしている。
ある日偶然、家で同郷の男がやってきた。聞けばお慶の夫であると言う。私は激しく動揺した。男は、今度お慶を連れてお礼に来ると言っていた。
三日後、男とお慶とその子供が来た。私は負けたと思って逃げ出した。
家に戻る途中でお慶親子を見かけた。お慶が私のことを褒めている。私は負けたと思った。この負けはいいことだ。かれらの勝利は私の明日の光になる。
『黄金風景』を読み返したいと思ったかたはこちら!
ここからは、実際の小説の本文と照らし合わせをしつつ、個人的な考察をしています。
最後までのネタバレになりますのでご注意ください。
考察
結論からいうと、『黄金風景』の二つの「負けた」には
- 一回目の負けた…今の状態(持っているもの)で負けた
- 二回目の負けた…過去の自分を乗り越えられて負けた
という違いがあると思います。
このことから『黄金風景』は
- どん底の中での救い
- 罪が清められた瞬間
- 救いにより見えて来た明るさ
について描かれた小説だと思います。
図にするとこんな感じです。
主人公の現状
ここから順を追って解説します。
まず主人公の今の状態や心の動きを最初から追ってみます。
物語は、主人公が過去の自分について振り返る部分から始まっています。
私は子供のときには、余り質のいい方ではなかった。
過去を語るというのは、過去にあった出来事を並べている、というだけではないです。
過去を語ることで、「主人公がその過去について今どう考えているか」ということも、一緒に語っています。
上の図では、1番目の人は過去を「あんなこともあったな~」と今と切り離して振り返っています。たぶん過去は穏やかに考えられる懐かしい思い出です。
2番目の人は過去を悔やんでいます。過去は今も心の強い重荷です。
しかも過去なので、もういまさら変えられません。ジレンマでさらに苦しくなると思います。
「この作品の主人公の場合はどっち?」と考えると、主人公は過去を語る一部分でこのように言っています。
いま思っても脊筋の寒くなるような非道の言葉
「いま思っても背筋の寒くなるような非道の言葉」は、過去に対しての後悔の気持ちを、主人公が今も強く持っているということを現わしています。
思い返すと、今の身体がぞっとするくらいです。だから主人公は画像の②にあたる人物です。
主人公の過去に対する後悔は今も続いていて、それが思い出されると苦しくなることがわかります。
主人公の動揺・怯えていること
そして作品は、主人公がお金の問題でも健康の問題でも、その後落ちぶれる様子に続いています。
そんな中、主人公は過去の知り合いに出会い、動揺します。
私は飛び上るほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶えしていた。
今度はこの動揺について見ていきます。
この主人公の動揺は、「今落ちぶれていること」を過去の知り合いに知られたことから来ているでしょうか。
たぶん、違うと思います
最初、故郷の知り合いに出会った時、今の落ちぶれを語る場面では、主人公はあきらめは感じられますがけっこう平静です。
おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか?~(中略)~「ごらんの通り」私は、にこりともせずに応じた。「私も、いまは落ちぶれました」
主人公に大きな動揺が見られるのは、次の場面です。
「お慶ですよ。お忘れでしょう。お宅の女中をしていた――」
思い出した。ああ、と思わずうめいて、私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。
「幸福ですか?」ふと顔をあげてそんな突拍子ない質問を発する私のかおは、たしかに罪人、被告、卑屈な笑いをさえ浮べていたと記憶する。
主人公が動揺したのは、子供の頃にひどいことをしたお慶の話題が出た時です。
自分のことを「罪人」と言っています。主人公は落ちぶれたことよりも、自分のお慶に対する過去の罪に対して恐れています。
一回目の「負けた」-勝ち組・負け組の分け方で負けた
『黄金風景』で出てくる二回の「負けた」の違いは、この「落ちぶれ」と「過去の罪」に対応しています。
まずは一回目の「負けた」について見てみます。
玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。きょう、私これから用事があって出かけなければなりません。」
主人公は、玄関先に現れたお慶一家の姿を見るなり逃げだしてしまいます。
その後に一回目の「負けた」です。
つまり一回目の「負けた」は
一瞬見るだけで感じるようなもの
に対して言っているということがわかります。
お慶は品のいい中年夫人になっています。夫と子供もいます。
それに対して主人公は落ちぶれて金に困っています。病気で身体も壊しています。
昔は裕福で勝ち組だった主人公ですが、今のお慶一家と今の自分の現状を比べると、立場は逆転しています。
勝ち組はお慶一家で負け組が自分です。
なので、これに対する反応は、あまり面白くはないというような言葉「ちぇ」で、これが第一の「負けた」の意味です。
二回目の「負けた」-お慶の言葉が自分の罪を消した
「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
負けた。これは、いいことだ。
二回目の「負けた」は、お慶の言葉がきっかけになっています。
主人公は涙を流し、一回目の「負けた」よりも激しい反応をしています。
最初に見てきたように、主人公が一番怯えていたのは「落ちぶれ」ではなく、「過去の罪」でした。
二回目に「負けた」を思うきっかけになったお慶のこの言葉は、主人公が過去にしていた罪を消す言葉です。
過去の主人公がしたことがどうであったにしても、今のお慶の中では、主人公はいい人になっています。
いじめも「目をかけてくださった」と再解釈されています。
この言葉によって、主人公が一番気にしていた「過去の罪」は無くなります。
これは「昔ひどいことをした。けれど今さらどうにもできない…」と思っていた主人公にとっては、
神によって罪を消してもらい、許しを得た感覚と近い
と思います。ボロボロと泣く主人公は、まるで神を見た人のようです。
ここで「勝ち負け」という言葉に合わせて同じことを説明します。
今のお慶は、過去の主人公のいじめを乗り越えているので、過去の主人公に「勝って」います。
逆で見ると、過去のいじめていた主人公は、今のお慶に「負けて」います。
これが、「いい負け」です。
過去の罪ですが、主人公の中では今でも激しく動揺するぐらい心に鬱々と残る影でした。
もしかすると、今の落ちぶれについても、
自分は罪があるのだから、このように落ちぶれるのが当然だ
ぐらいに思っていたかもしれません。
主人公はお慶に負けたことで、過去の罪を消され、さらに今に続いていた心の重荷から解放されたことになります。
これが、二回目の感動する「負けた」の意味で、主人公はお慶のその言葉によって泣き、気持ちが溶かされました。
かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。
その結果、罪が消され、自分の未来に光が見えるようになったのだと思います。
お慶の気持ち
なんでひどいことされたお慶が、今、あの人はいい人みたいなことを言ってるの!?
お慶の言葉ってさぁ、ひょっとして嫌味なんじゃない?
確かに、主人公は「非道な」ことをしていたのに、なんでお慶は考えを変えたんでしょう。
お慶の言葉は嫌味か
まず、「お慶の言葉が実は嫌味か」ですが、主人公が故郷を離れてここに住んでいると知る前から、お慶は夫にいつも主人公のことを話していました。それに対し夫は、「主人公にお礼をしなければ」という感想を持っています。
そして二回目の「負けた」の部分では、お慶は主人公がいることを気づかずに話しています。
夫がお礼をしたいという感想をもっていることと、本人がいない所で嫌味を何度もいう必要はないことから、主人公のことを最後に褒めた言葉はお慶の今の本心だとわかります。
お慶が「主人公は親切」と言ったわけ
じゃあなんでお慶の考えはそんな風に変わったの?
朗読が題材になっているマンガ『花もて語れ』では、太宰治の『黄金風景』をこのように解釈しています。
『黄金風景』は主人公の一人称の小説なので、そこに語られていることには主人公の思いが入ります。
「日は短いのだぞ」とお慶をせきたてた自分の言葉を「非道の言葉」と考えるような主人公はとても繊細な人物で、お慶は元から主人公に非道なことをされているとはまったく思っていなかった、という解釈です。
『花もて語れ』は本当におもしろいです。一読オススメ。
ただ、正直わたしには当時のお慶がどう考えていたかはわからないです。
確かに主人公の「日は短いのだぞ」という言葉を、主人公のように「非道の言葉」ととるのは大げさな気はしますが、お昼も食べさせずに日暮れまで絵を切り抜かせ、失敗するたびに癇癪を起すのはひどいと思います…。
【これはいびりと言えるのかな?と思う事】
- お慶がぼんやりしていると「お慶、日は短いのだぞ」と声を掛ける
【これはひどいと思う事】
- 朝から昼ご飯も食べさせず日暮まで絵本の兵隊を切り抜かせ、失敗するたびに怒鳴る。
- さらに癇癪を起こして肩を蹴る。
肩を蹴ったはずなのに、がばと泣き伏して顔を蹴られたとお慶が言ったのは、わがままが行き過ぎた子供の頃の主人公をからかいながら諫めた気もしますが、お慶が疲れて本当に顔を蹴られたと思い込んだという可能性もあります。
なので当時のお慶がどのように考えていたかは、お慶の当時の内面は見えないのでわかりません。
たぶんですが、子供の頃の主人公は、いじめともとれる・目を掛けているともとれる、その中間ぐらいの感じでお慶と接していたんではないでしょうか。
お慶は今は「お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちが」うとだんなさんが感じるような品のよいご夫人になりました。なのでお慶自身も「きちんと主人公の家でしつけてもらったから今の自分になることができた」と考えていると思います。
また第二の「負けた」の部分で主人公は「お慶の勝利」ではなく「かれらの勝利」と言っています。
これは第二の勝利について主人公は、お慶が一人で主人公の家にいる間にやりとげたことではなく、今の家族に囲まれている環境から生まれた勝利だと思っているということではないでしょうか。
こんなことから私は、お慶の「主人公は親切」という考え方は、実際の主人公の行動はどちらともとれるものだったけれど、お慶が今の落ち着いた状態になっているからこそ、過去を振り返りあれはいいことだったと思い返してできた再解釈、と思っています。
思い出はすべて再解釈…(ちょっと重い)
主人公は、お慶を蹴った時に言われたセリフ「一生おぼえております」に引きずられて、さらに今の辛い状況もあって、お慶に「酷いことをした」とかなり重く考えています。
お慶は、きびしく当たられてきたこともたぶんあったけれど、今の幸福があるので、そこも自分の糧になったといい方向に再解釈しています。
出来事は同じでも捉え方は人それぞれで、さらに今の状況で変わる…(かなり重い)
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-- THINKING TIME --
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まあどちらにしてもなるべく後悔しないように行動するのが一番だと思います!
『花もて語れ』については、こちらの記事でもご紹介しています。
>>文学好きにこそ真剣におすすめしたい「文学・文豪系マンガ」5選
\太宰治『黄金風景』についての『花もて語れ』の解釈は、こちらの第5巻で描かれています/
プーシキンのエピグラフ
今回の解釈とは直接は繋がりませんが、最後に少し、この物語についているプーシキンのエピグラフについて、考えたことをご紹介します。
海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて ―プウシキン―
海岸にキラキラと輝く木がある光景です。
今回のお慶一家が海岸で見せた輝きに似ています。
だからこの引用は使われているとは思います。
ただ、このプーシキンの詩はさらに続きがあります。
このエピグラフはプーシキンの「ルスラーンとリュドミーラ」の序章の一部です。
いりえのほとりの みどりのカシの木
いりえのほとり 作 A.C.プーシキン 絵 タチャーナ・マーヴリナ 訳 内田 莉莎子
みきにまかれた 黄金のくさりに
ものしりネコが つながれて
昼も夜も あるきまわる
1984年 ほるぷ出版
木に繋がれた黄金の鎖にはものしりネコが結び付けられています。
ものしりネコは鎖に繋がれたまま、右に行くと歌を歌い、左に回るとおとぎ話を語ります。
『黄金風景』の作中では、主人公の郷里は「K」とぼかされていますが、作者である太宰治の生まれ故郷は「金木」という町です。
なのでこの小説を作者と結び付けると、今回の主人公の出身地は「金木」ということになります。
エピグラフの中の、黄金の鎖が付いた木は「金木」という地名を連想させないでしょうか。
そしてものしりネコは「小説家」を連想させないでしょうか。
ものしりネコは「金木」に結びつけられて、物語を作ります。
このネコは、生まれ故郷から離れて暮らしていても、心は故郷から分離することはできず、故郷の思い出から繋がる物語を描いている太宰治の姿と重なる気がします。
まとめ
今回は二度の「負けた」から、救いの物語として太宰治の『黄金風景』を解説してみました。
太宰治の『黄金風景』は、「どん底の中での救い・罪が清められた瞬間・救いにより見えて来た明るさ」について描かれた小説です。
それは主人公の怯えの内容や、二度の「負けた」を見る事でわかります。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます
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