『銀河鉄道の夜』は、銀河を走る鉄道に乗って幻想的な宇宙を旅する少年2人を描いた、宮沢賢治の代表的な童話です。
最晩年まで賢治の手によって何度も書き直され、その度に変更が加えられていきました。

もうじき白鳥の停車場だから
六、銀河ステーション より

ジョバンニとカムパネルラが旅で最初に立ち寄ったのは「白鳥の停車場」。
最後に立ち寄ったのが「サウザンクロス」でした。
白鳥座は夏の星座で「北十字」とも呼ばれ、サウザンクロスは「南十字」とも呼ばれます。
二人の旅はさまざまな夏の星座を巡りながら、北十字から南十字へと進んでいきます。

ケンタウルス、露をふらせ
四、ケンタウル祭の夜

この日は「ケンタウルス祭」の夜です。子供たちは「ケンタウルス、露をふらせ」と叫んで走り回ります。
実際の天体でも、毎年8月12日頃の真夜中にはペルセウス流星群が降り注ぎます。
「露をふらせ」とはこの流れ星の様子、という説があります。

あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう
九、ジョバンニの切符

ジョバンニはサソリの火の色に感動しています。
サソリ座で最も明るい恒星、アンタレスの色は「リチウムよりもうつくしく酔ったように」燃えています。
リチウムは金属元素の1つ。金属を炎で加熱するといろいろな炎の色が現れることを、炎色反応といいます。

作品がいろいろなキラキラを放ってる
『銀河鉄道の夜』には、たくさんの自然科学が詰め込まれていて、それが作品の輝きを増しています。
宮沢賢治は早くに亡くなりましたが、科学者でもあり詩人でもあり学校の先生でもありセールスマンでもあります。
そんな彼が書いた童話です。この作品はただ幻想的なだけでなく、実際の自然科学が組み込まれています。
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ただ、ストーリーを考えた時はと言うと、



…綺麗だと思うし、科学知識は説明されればなんとかわかるけど…



けっきょくお話が何を伝えたいのか読み取れず…。夢オチ?なのかなぁ…
イマイチよくわからないところがあります。
「自己犠牲」とか「みんなのほんとうのさいわい」という言葉が印象に残ります。
じゃあ耐えて過ごせ!
っていうことなのか、ちょっと腑に落ちないところも。
このお話は何度も書き直されていることで、その時の宮沢賢治の考えがどんどん付け加えられていて、複雑さが重なっているようです。
この記事では、作品の中身を踏まえて、別稿や別作品も参照しながら、
『銀河鉄道の夜』のストーリーは何が言いたい?
を考察・解説します。



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宮沢賢治『銀河鉄道の夜』基本情報


『銀河鉄道の夜』概要
作 者 | 宮沢賢治(1896年8月27日-1933年9月21日) |
出版年 | 1934年(昭和9年)※没後の出版です |
初出誌 | 宮澤賢治全集 第三卷(文圃堂書店) |
テーマ | わからない中での「みんなのほんとうの幸い」への道 |
『銀河鉄道の夜』の成り立ち
『銀河鉄道の夜』は賢治の手によって何度も推敲され、内容が変化してきた作品です。
書き始めは1924年ですが、死の直前まで約9年間、改稿・推敲がされています。
そのため作品は、第1次稿~3次稿までの初期形と、賢治の死後、研究者によって整理された最終形(第4次稿)があります。
現在一般に読まれているのは、第4次稿です。
このブログでも、第4次稿をメインに考察しています。
異稿も読みたい方にはこの本がオススメです
『銀河鉄道の夜』の第4次稿(最終形)のほかに、初期形第1次稿・2次稿・3次稿がすべて載っています。
『銀河鉄道の夜』簡単なあらすじ


今日は村の銀河のお祭りの日です。夕方ジョバンニが村の丘でさびしい気持ちで横になっていると、いつの間にか銀河を走る列車の中にいました。そこには友人のカムパネルラがいました。
ジョバンニとカムパネルラは美しい銀河を旅します。
旅の最後でカムパネルラは消え、気が付くとジョバンニは元の村の丘にいました。
丘を降りると橋の所に人だかりがあります。そこでジョバンニは、カムパネルラが友人を助けようとして川に入り、溺れて死んだということを告げられました。
別の記事で、「銀河鉄道の夜の詳しいあらすじ」と感想を紹介しています。


作品の詳しいあらすじを知りたい方はこちらを参考にしてください。
感想の部分は今回の記事とすこし被る点や、考察が足りない部分があるかもしれませんが、ご了承ください。
\注・ガチ考察なので長いです/
作品のストーリーからみる『銀河鉄道の夜』考察
ここからは『銀河鉄道の夜』を、ストーリーを踏まえて考察していきます。
銀河鉄道は死者を安らぎに連れていくためのガイド


まずはジョバンニとカムパネルラの2人が乗った「銀河鉄道」がどのような列車かについて考えてみます。
銀河鉄道で最深部にまでいけた人には、その人の持つ特性とたどり着いた場所に共通点があります。


鷲の停車場の近くで乗り込んできた3人、青年・かおる・タダシは客船で事故に遭い、他の人にボートを譲ったため命を落とした死者でした。
そして銀河鉄道に乗り込み、自らの信じる神様のいるサウザンクロスで降りていきます。


ジョバンニの友達のカムパネルラはどうでしょう。
旅をしている時はわかりませんでしたが、彼も自己を犠牲にして亡くなった死者でした。
物語の最後で、カムパネルラは友人のザネリを助けるために川に飛び込み、命を落としていたということがわかります。


カムパネルラはサウザンクロスの先の「ほんとうの天上」でお母さんの姿を発見し、そして消えました。
カムパネルラはお母さんの元に行って安らぎを得たのだと思います。


全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
九、ジョバンニの切符 より
つまり銀河鉄道は、到着地点は人により違っていても、「自己犠牲」という立派な行いをし命を落とした彼らを、「安らかな気持ちでそれぞれの安らぎに連れていくガイド」の役割をする列車だったということになります。
・銀河鉄道で最深部に行くのは、自己犠牲の性質を持つ人たち
・彼らは銀河鉄道に乗り、死者は最終的に「それぞれの思う安らぎ」に導かれる
・汽車の中でも穏やかな気持ちで過ごす
生きているジョバンニは「安らぎ」に到達できず、現実に戻る


そんな死者のための列車に、まだ生きているジョバンニも乗り込んでいます。
生者である彼がなぜ列車に乗れたのかの理由は、はっきりはわかりません。



昼間に授業で聞いた銀河への憧れから乗れたのか



でももしかしたら…


ジョバンニの力になれなかったとカムパネルラが未練を残していたので、彼をほんとうの意味で安らかにするために、銀河鉄道がジョバンニを乗せ、話す機会を与えたのかもしれません。
ジョバンニは死者ではありません。
けれど、この列車に最後まで乗れる人と同じ「自己犠牲」に近い性質を持っています。


ジョバンニは父の代わりに学校帰りに活版印刷所に働きに出て、お母さんの世話もして、毎日くたくたの状態でした。
自分を犠牲にして、家族に尽くしていました。
けれど生者である彼は、銀河鉄道の終着点まで行きますが、「安らぎ」に行った死者たちとは違う場所に到着します。
そこが「石炭袋」です。
「石炭袋」は、実際の南半球にある暗黒星雲の名前ですが、この作品では現実への通路としての役割を果たしています。


銀河鉄道は石炭を燃料にしていません。
旅の最初の時点でこの汽車は「アルコールか電気を燃料にしている」と言っています。
なので石炭は銀河の世界というよりも、現実世界に属するもののようです。
このことから「石炭袋」は、
・現実を感じさせる名前の終着点
・つまり、この銀河の中で現実に近い場所=現実への通り道
とも考えられます。
石炭袋を抜けジョバンニは現実に戻ります。


生きているジョバンニは、自己犠牲的な性質を持ちながらも、安らぎに到達することはなく、また元の世界に戻ってきました。
・ジョバンニも自己犠牲的な性質を持っている
・生者であるジョバンニは「安らぎ」に到達できず、現実に戻る
死者のほうが安らぎに行けて幸せ?「自己犠牲」の持つ2つの問題点
ここまで
・銀河鉄道は自己犠牲をした死者を安らぎに導く列車
・生者であるジョバンニは自己犠牲的な性質を持ちながらも、安らぎには到着できず現実に戻る
と、読んできました。
死者が安らぎに行くのに対して、ジョバンニは現実にそのまま戻されます。
なので、ジョバンニはまだまだ現実の波に揉まれながら生きていくことになると思います。





なんかまとめたら、ある意味、死者の方が安らぎに行けていいような気がしてきた。助けた相手のためになってるし、命を落とすことさえ、このお話では天での自分の安らぎに繋がるよね…
けれど、自己犠牲による死には
2つの大きな問題点
があります。
『銀河鉄道の夜』のストーリーは、「自己犠牲をする人の魂の気高さ」が書かれていますが、「自己犠牲をして、死後に安らぎを得るのがいちばん」と言ってはいません。
その説明になるのが、
・何度も繰り返される、「死者との別れのつらさ」の様子
・命を落とすことで、その人の時間は終わってしまう、ということ
です。
死者との別れのつらさ 別れを喜べないジョバンニ
「死者との別れのつらさ」について見ていきます。


『銀河鉄道の夜』は、別れの物語です。
ジョバンニは旅の中で2つの大きな別れに遭遇します。
1つは銀河鉄道の中で出会った船上の3人との別れ、1つはカムパネルラとの別れです。
どちらの別れでもジョバンニは、心に強い痛みを感じています。
死者たちは自己を犠牲にした立派な人で、誰かを救いました。
そして本人も銀河鉄道の旅の果てに安らぎに導かれたのを、ジョバンニは見ています。
誰かが救われ、救った人も幸せになりました。けれど、ジョバンニは別れを喜ぶことができません。


助けられたものは助けられたからいい、自己犠牲で死んだ者は安らぎに導かれるからいい。
けれど、本人たちが安らかだとしても、遺された者はつらく寂しい。
こんなつらさを引き起こしながら、「自己犠牲による死」は最良と言えるんでしょうか。
こういった投げかけが、別れのシーンの重なりによって『銀河鉄道の夜』では何度も行われていると思います。
・『銀河鉄道の夜』で繰り返し描かれるモチーフは「死者との別れのつらさ」
・ここで、「自己犠牲はほんとうに最良の方法なのか」という投げかけをしている
【コラム】カムパネルラと父との別れについて 自己犠牲が与える悲しさ
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
九、ジョバンニの切符



子供が亡くなってるのに、お父さん、こんなにあっさりしていていいの?
この作品では、「カムパネルラの父が、自分の息子が亡くなっているのに冷静すぎる」ともよく言われます。
確かにカムパネルラの父親は一見悲しがっていないように見えます。
だけどこれが本心でしょうか。
ここで、もしカムパネルラの父親が「なんでお前はそんなことをしたんだ」と泣き叫んだらどうなるでしょう。
助けられたザネリを苦しめることに繋がりますし、カムパネルラの自分を犠牲にしてまで相手を助けた美しい行為を「そんなこと」と貶めてしまうことになります。
カムパネルラは、クラスの中でジョバンニをいじめない人格者です。
カムパネルラの父も、人格者であることは推測できます。
カムパネルラの自己犠牲は立派な行為です。
でもその為に、人格者の父は息子が死んでも泣き叫ぶことができず、平静を保ち、「川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました」と静かにしか悲しみを表せなくなっています。
最期のシーンのカムパネルラの父親の不自然さも、ジョバンニと死者の別れのシーンと同じように、
自己犠牲が最良なのか
という問いになっていると私は思います。
命を落とすことで、自己犠牲をした人の時間は終了してしまう


「自己犠牲による死」のもう一つの問題は「命を落とすことで、自己犠牲をした人の時間は終了してしまう」ということです。
「別れ」を違う立場から見た言い換えになりますが、死者は再び生者のいる現実世界に戻ることはできません。
本人たちの人生はそこで終わり。
生命は終わっているので安らぎには到達しても、そこで何かを変えること・自分が変わることはできません。
そのことを
・ジョバンニとカムパネルラの持つ切符の違い
が表現しています。
ジョバンニの大きな切符・カムパネルラの小さな切符が表すもの


ジョバンニの切符は大きくて緑色・唐草模様が入っています。
カムパネルラの切符は小さくて鼠色です。
ジョバンニの切符のグリーン・草模様はこれから変化していく生命力、カムパネルラの切符のグレーは、無機物で変化することのない岩のようなものを連想させます。
切符の大きさの違いは行ける範囲の違いです。鳥捕りはジョバンニの切符をみて言います。
こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。
九、ジョバンニの切符
生きているジョバンニはどこへでも行ける切符を持っているのに対して、死んでしまったカムパネルラは小さな切符しかなく、道が決まっています。現実に戻ることはできません。
「自己犠牲による死」は、その人自身の未来の可能性を消してしまうのと同時に、その人がこれから何かを現実に与えることができたかも、という可能性も消してしまいます。
・生者と死者である2人の切符の違いは、2人がこれから行ける場所の違いを表している。
・「自己犠牲による死」によりその人の時は止まり、「彼のこれからの可能性」「今後周りに何かを与える可能性」は消えてしまう。
ただの「自己犠牲」ではない「みんなのほんとうの幸」
ここまで、
・自己犠牲した死者は銀河鉄道を通り、安らぎに導かれる
と同時に
・自己犠牲は遺された人につらい別れをもたらす
・死者はもう現実には戻る切符を持っていない。死ぬことで彼の現実での可能性は止まってしまう。
ということをストーリーを通して見てきました。



自己犠牲はいいことばかりじゃないってわかったけど、でもこのお話、それでも自己犠牲が尊いってたくさん言ってない?
たしかに、船上の3人やカムパネルラの話の他にも
・鳥捕りにすべてをあげてもいいと思う話
・サソリの火のエピソード
など、自己犠牲を尊いとするような話が多いです。
ただ、このエピソードを良く見ると、「自己犠牲が尊い」の本来の目的
「ほんとうの幸」
が見えてきます。
ジョバンニの言葉から、それらをさらに掘り下げます。
「自己犠牲」は「ほんとうの幸」のための手段
物語の前半「鳥捕り」に対しての、ジョバンニの自己犠牲の語りを見てみます。


もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか
九、ジョバンニの切符
ジョバンニは銀河鉄道に乗ってから、自分でも不思議に思うほど「自分を犠牲にして他者のためになりたい」という気持ちが湧いてきています。
けれどこの部分ですが、よく読むとただ「自己犠牲をしたい」と言っているのではありません。


この人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って…
ここでジョバンニは「この人のほんとうの幸になるなら」自分が代わってもいいと言っています。
なので一番重要なのは自己犠牲という行為よりも、
この人のほんとうの幸になること
という目的です。
自己犠牲はそのために行うことで、手段にすぎません。
・物語の前半、ジョバンニは鳥捕りになんでもしてあげたいと言っている
・けれど、それは犠牲になること自体が目的ではなく、「この人のほんとうの幸になるなら」が前提。
なので、大切なのは「ほんとうの幸」
「この人のほんとうの幸」から「みんなのほんとうの幸」へ


次の引用は旅の最終部分、カムパネルラが消える直前のジョバンニの決意です。


僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
九、ジョバンニの切符
ここでも自己犠牲は手段、目的は「幸い」です。
さらに、前半では「鳥捕り1人の幸」を考えていたジョバンニは、この部分では「ほんとうにみんなが幸いになること」について考えていることがわかります。
・物語の後半、ジョバンニは「誰か1人を幸いにすること」ではなく、「みんながほんとうに幸になること」へと考えを進めている。
自己犠牲は「ほんとうにみんなの幸」には繋がらない
自分が犠牲になることで、世の中のみんながほんとうに幸いになるなら、命を捨ててもかまわないとジョバンニは言っていました。
けれど、これは仮定から出て来た言葉です。
ジョバンニがみんなのために命を捨てたとして、「ほんとうに」「みんなの」幸いになれるんでしょうか。
今まで見てきたように、誰かが犠牲になることで、助けられた誰か又は世界中のほとんどの人が幸せになったとしても、死んでしまった人の身近な誰かはきっとその人の死を悲しむでしょう。
なので自己犠牲は尊い行動ですが、「ほんとうに」「みんなの」幸いにはなれません。
ジョバンニの仮定はあり得ないことで、だからこそ「自己犠牲」というやり方には限界があると言えます。
・悲しむ誰かがいる以上、自己犠牲は「ほんとうに」「みんなの」幸いには繋がらない
【コラム】ジョバンニのつらい日常
「自己犠牲」が「ほんとうにみんなの幸いには繋がらない」と考える理由としては、「誰かが死を悲しむ」というほかにも、もう1つ理由があります。
このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
一、午后の授業
ジョバンニはいい子です。家族を助けて働く、自己犠牲的な性格を持っています。
けれど彼の日常はつらいものです。疲れ切ってます。



こんなにジョバンニ大変なのに、自己犠牲が「ほんとうに」「みんなの」幸いなんてとても言えない気がします…
自己犠牲は「対症療法」
さらにいうなら、この作品で描かれている自己犠牲は「対症療法」です。
「対症療法」は医学用語で、「原因療法」の逆にあたります。
風邪で言えば
対症療法…痛み、発熱、せきなどの症状が和らぐような薬を飲む
原因療法…風邪のウイルスそのものを根絶させる
になります。ちなみに、風邪のウイルスそのものを排除できる薬はまだありません。
船上の3人はボートが足りなかったので、自分を犠牲にしてボートを譲りました。
けれど、ボートをもっと用意することはできなかったのでしょうか。
天候を予想して回避することはできなかったのでしょうか。
・誰かの犠牲を伴わずに、ほんとうの(根本的な)幸いに繋がる道はないのだろうか
生者だけができる「ほんとうに」「みんなの」幸いのための方法
そしてジョバンニは、ある考えに到達します。
船上の3人との別れの場面です。


天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。
九、ジョバンニの切符
このジョバンニの言葉こそ、「ほんとうにみんなの幸」に繋がる方法だと私は思います。
船上の3人は神の前に行くことを最上の喜びとしていました。
けれど自分を犠牲にして天上で安らぎを得るという「天国思想」的な考え方は、別れを伴い、遺された者に悲しみをもたらします。


だから天国に行くことを目標とせずに、自分達のいる世界を「いいところ」に変える。
そのために努力をする。
これは自己犠牲の別れを伴いません。「みんなの」幸いに繋げることができます。
・この世界を「天上よりいいところ」にすれば、自己犠牲による別れの悲しみはないまま幸せになれる。
→「ほんとうに」「みんなの」幸いに繋げることができる。
そしてこのことが出来るのは、生きている者だけです。
カムパネルラは最後の場面でジョバンニの道に同意しますが、すでに死者である彼は現実に戻ることはできません。
・世界を「いいところ」にできるのは、今生きている人のみ
自分を犠牲にして他の人のためになった死者は立派です。
けれどそれは、「みんなのほんとうの幸い」とは言えません。
今生きている者が目指す道は、「現実世界を天上よりもいいところにすること」
これが、『銀河鉄道の夜』という別れの物語で、宮沢賢治が示した「みんなのほんとうの幸い」への道だと思います。
【コラム】ジョバンニの名前の由来は何?
ジョバンニ(ジョヴァンニ)の名前は、キリスト教の聖人ヨハネに由来しているという説があります。
ジョバンニは「ヨハネ」のイタリア語読みです。
ジョヴァンニ(Giovanni)は、キリスト教の聖人ヨハネ(洗礼者ヨハネ)にちなむイタリア語の人名。ジョバンニと表記されることもある。
Wikipedia ジョヴァンニ より
キリスト教の「ヨハネ」には、「洗礼者ヨハネ」と「使徒ヨハネ」がいます。
このうちの「使徒ヨハネ」は、イエスの12弟子の1人ですが…



この「使徒ヨハネ」がジョバンニの名前の由来になっていると思います。
他の弟子たちが迫害を受け殉教していくなか、使徒ヨハネは唯一生き延び、約90年の天寿を全うしたそうです。
『銀河鉄道の夜』のジョバンニも、死後の安らぎに向かった船上の3人やカムパネルラとは違う道を通り、現実世界に戻り、そこを変えようと旅の中で決意をしました。
長く現実で生き布教をした使徒ヨハネと、現実を変える道を決意したジョバンニ。
2人は「現実を変える」という道を進んだことで一致しています。
それでも残る疑問「ほんとうに」「みんなの」幸いとは



ただ、この道を見つけてもジョバンニはまだ考え続けます
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
九、ジョバンニの切符
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
『銀河鉄道の夜』ストーリーによる考察のまとめ


いったんまとめます。
他者のために自分を犠牲にするのは尊い行為です。
そのために不幸にして命を落とした人は、間違いなくあの世で安らぎを得ているはずです。
けれど、それは今生きている人が目標とする道でしょうか。
死による別離はとても悲しいものです。
さらに、死んでしまえばその人は、それ以上現実を変化させることはできなくなってしまいます。
今生きている人には別の役割があると思います。
生きている人は現実を変えていく力をもっています。
死後の楽園をめざすのではなく、現実を「天上よりもいい世界にすること」。
これが、「みんなのほんとうの幸」に繋がる道の1つです。
だけど、「みんなのほんとうの幸」は一体何だろう。



ここまでが、「銀河鉄道の夜」をストーリーから見た考察でした



「一体何だろう」ってそんなまとめあり????
たしかにそうですよね…。
ここからさらに、別稿・別作品などから考えを進めていきます。
『銀河鉄道の夜』第三次稿と他作品からの解説



「一体何だろう」って言われても…



ジョバンニは一旦わかったみたいでも最後でまた「わからない」言ってるし、それに結局夢オチだし、やっぱりなんかはっきりしない作品
たしかに『銀河鉄道の夜』は、すっきりとした終わりの小説ではないです。
ただ、それも宮沢賢治が「あえて夢オチで終わらせる」「あえてジョバンニに考えさせ続ける」形にしている形跡があります。
ここからは『銀河鉄道の夜』を第三次稿や他の作品と比較し、あえてこのようにした意味を考察していきます。
ブルカニロ博士の登場 『銀河鉄道の夜』第三次稿
今までみてきた『銀河鉄道の夜』は最終稿=第四次稿です。
『銀河鉄道の夜』はその前の版である第三次稿も残されています。それは第四次稿と内容がかなり違っています。


もっとも大きな違いは、第三次稿には「ブルカニロ博士」という人物が登場することです。
ブルカニロ博士は旅の途中で「セロのような声」としてジョバンニに語り掛けます。
そしてカムパネルラが消えた後、銀河鉄道の中に現れ
・自分の切符を大切にして、あらゆる人のいちばんの幸福をさがしなさい
とジョバンニを促します。
彼は、ジョバンニに「一心に勉強すること」を勧め、
おまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学も同じようになる。
と伝えます。


ブルカニロ博士は現実に戻ったジョバンニの前にも現れ、
・銀河鉄道は自分の考えを人に伝えるための実験だった。
・決心した通りまっすぐ進みなさい。何かあったら相談に来なさい。
と伝え、金貨2枚をお礼としてジョバンニに渡しています。
そしてジョバンニは、
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強くいいました。
と、ほんとうの幸福にまっすぐ進むことを決意します。
ジョバンニは第四次稿で現実感も指針も減らされている



第三次稿のほうがジョバンニに迷いがない気がする
第三次稿は現実世界にも登場するブルカニロ博士という師匠がいて、夢オチではなくなっています。
第三次稿ではジョバンニは最後に金貨2枚を手に入れます。
第三次稿にはそのシーンはありませんが、仮に第四次稿のジョバンニがこの金貨を持っていたとしたら…。
カムパネルラの父親の前に出て、説明したかもしれません。



僕はたった今カムパネルラと銀河を旅してきました。
一緒にいたブルカニロ博士もそれを見ました。
彼がくれたこの金貨が証拠です。博士は今、草の丘にいます。


この金貨は、銀河鉄道での出来事が自分だけの夢ではないという証明にもなります。
けれど、そんなきちんとした物語を宮沢賢治は捨てて、あえて第四次稿の「夢オチ」に変更しています。
・宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』を夢オチにしないストーリーも考えていたうえで、あえて夢オチにしている。
また、ジョバンニは第三次稿では、ブルカニロ博士から「自分のやるべき指針」を与えられています。
ところが第四次稿では師匠はいません。なのでやるべきことはわからず、「みんなのほんとうの幸」を考えながらも、考えは堂々巡りになります。
・宮沢賢治は第四次稿では、あえてジョバンニに考え続けさせている
『学者アラムハラドの見た着物』との比較
どうして宮沢賢治は、銀河鉄道での出来事を夢オチにし、ジョバンニに考え続けさせたんでしょう。
それを考えるためには、賢治の『学者アラムハラドの見た着物』という作品が参考になります。
『学者アラムハラドの見た着物』は一章と二章の途中までしかない未完成の作品です。
けれど、この第一章は『銀河鉄道の夜』を補完しています。


ある日、学者アラムハラドは自分の生徒の11人に尋ねます。
「人が生まれつきもっている、そうしないでいられないような性質とはいったい何だろう」
1人の子供が答えました。「人は歩いたり、物を言ったりします」
けれど、アラムハラドはこの答えには満足しません。
「足や舌を無くしてもいいと思えるような場合がないだろうか」と考えさせます。
別の子供が答えました。「私は飢饉でみんなが死ぬときに、私の足を切って飢饉が止むなら、足を失ってもくやしくないです」
アラムハラドはこの答えに感激しました。別の子供は「人が歩くことよりも言うことよりも、もっとしないでいられないのは、『良いこと』です」と続けました。
その時アラムハラドは、ひそかに目をかけているセララバアドという子供がなにか言いたそうにしているのに気が付き、言葉を促しました。
セララバアドは答えます。「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」
アラムハラドは目をつむりました。眼をつぶったくらやみの中、ずっと遠くの青い美しい景色の中に、黄金の葉をもった立派な樹が並んで、梢を鳴らしているように思えました。
『学者アラムハラドの着物』の第一章は、人間の性質について考えています。
この作品の「みんなのために足を切ってもいい」という言葉は、『銀河鉄道の夜』にあった
ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
を思い出させ、セララバアドが最後に答えた、
人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられない
は、ジョバンニの「みんなのほんとうの幸を考え続ける姿勢」と重なります。
なぜ改変? 『学者アラムハラドの着物』からの答え
『学者アラムハラドの着物』からわかるのは、
人がほんとうの幸いを考えてしまうのは、誰に教えられるのでもない元から持った性質
ということです。
宮沢賢治は、ブルカニロ博士がジョバンニの師匠となるような第三次稿を捨て、ぼんやりとした夢のような第四次稿に改変しました。
これは単に夢オチにしたのではなく、ジョバンニの「みんなのほんとうの幸を考え続ける」決意を、誰かから教えられたものにしたくなかったのだと思います。
・宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を夢オチにしたのは、ジョバンニの「みんなのほんとうの幸を考え続ける」姿勢を、誰かから教えられたものにしたくなかったから。
また、ジョバンニが「みんなのほんとうの幸を考え続ける」のも、「それが人の性質だから」です。
なので言い換えればどんな人でもこの性質を持っています。
ジョバンニだけではなく、どんな人の中にも「みんなのほんとうの幸」を考え続ける性質がある。
『銀河鉄道の夜』別稿・別作品からの考察のまとめ
別稿・別作品との比較からわかることをまとめてみます。
ジョバンニが自然と持つようになった「みんなのほんとうの幸いを考え続ける」気持ちは、誰かに教えられたものではありません。
これは人の性質ともいえるものです。どんな人も、この作品を読んでいる人もきっと持っているはずです。
最終まとめ わからないなりの「みんなのほんとうの幸」への道



ちょっと思ったんだけど…



そもそも「みんなのほんとうの幸」って難しい。
第三次稿では「勉強すればわかる」って言ってるけど、ほんとうにそうなのかな?



天才ならもしかしてかもだけど、具体的な方法は凡人じゃわかる気がしないですよね…



宮沢賢治もそう思ったから、第四次稿では「みんなのほんとうの幸はなんだろう?」って考え続ける姿勢に変えたのかな、って思いました!
「みんなのほんとうの幸」への指針がわからない以上、現実を天上よりもいい世界にするために、具体的に何をすればいいのかはわかりません。
だからジョバンニは最終稿では考え続けることになりました。
でも、ジョバンニがわからないなりに「みんなのほんとうの幸は何か」を考え続ければ、なにも考えないよりも、今より幸いに近づけるはずです。
『アラムハラドの着物』では、セララバアドの言葉を聞いたアラムハラドが暗い世界の遠くに黄金の世界を見ます。
「ほんとうのいいこと」を考え続けることは、世界を希望の世界へと通じさせる力です。
そして、『アラムハラドの着物』では「人はほんとうのいいことが何かを考えないでいられない『性質』」と言っていました。
みんながジョバンニと同じように、自分の心の中にある「みんなのほんとうの幸」を考え続ける性質に従えば、世界はさらにいい方向に進んでいくはずです。
それが「みんなのほんとうの幸」があやふやで、手段がわからなくても、「みんなのほんとうの幸」へと近づいていく方法といえます。
宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で言いたかったのはこのことではないでしょうか。
「自己犠牲」は立派な行為です。
けれどそれは別れを伴い、「みんなのほんとうの幸」にはならないと思います。
今生きている人は、現実を変えていく力をもっています。
死後の楽園をめざすのではなく、現実を「天上よりもいい世界にすること」。
これが、「みんなのほんとうの幸」に繋がる道の1つです。
だけど「みんなのほんとうの幸」が何かということや、そのための手段もわからないと思います。
わからなくても「みんなのほんとうの幸」を考え続けるのは、人の誰もが持っている性質です。
1人1人が、「みんなのほんとうの幸」を考え続けることで、わからないなりに、現実は「みんなのほんとうの幸」に近づいていくはずです。



ちなみに賢治のいう「みんな」は人間だけでなく、動物や植物も、石や鉱物も、すべて含まれているみたいです…
宮沢賢治の経歴からの連想



最期に宮沢賢治の経歴から、銀河鉄道の夜と結びつく人をご紹介します
賢治の妹・宮沢トシ
宮沢トシさんは宮沢賢治の2歳年下の妹です。
とても優秀なかただったようですが、賢治が26歳の時に結核で亡くなっています。
『銀河鉄道の夜』のカムパネルラは、このトシさんがモデルになっているという説もあります。
宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を書き始めたと言われている1924年は、トシさんの三回忌です。
トシは死んで安らぎを得たに違いない。
けれど、どうして自分はいつまでもこんなに悲しいんだろう
このような想いから、銀河鉄道の夜は書かれていったのかもしれません。
『銀河鉄道の夜』関連のオススメ映画
アニメ『銀河鉄道の夜』(1985年)
『銀河鉄道の夜』で検索すると出て来る、赤と青の猫の画像が気になっている人も多いんじゃないでしょうか。
実はこれは、1985年7月に公開された映画『銀河鉄道の夜』のキャラクターです


古い作品ですが、今でもファンが多い、独特の雰囲気がある映画です。
こちらの記事では、アニメ『銀河鉄道の夜』をフルで観る方法について紹介しています。


『銀河鉄道の父』
宮沢賢治の家族について知りたい方には『銀河鉄道の父』をオススメします!
原作小説は直木賞受賞作品です。
父親役の役所広司は間違いなくはまってるし、賢治役の菅田将暉のダメっぷりも、森七菜のトシの妙に頼れる感じもよかったです。
私は上映中2/3ぐらい泣きっぱなしでした…。



ここまで読んでいただきありがとうございました!
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