『オツベルと象』は小中学校の教科書にも採用されてきた、宮沢賢治の1926年の作品です。
健気な白象が工場経営者のオツベルにこき使われてひどい目に遭います。
けれど駆け付けた仲間によりオツベルは踏みつぶされ、白象は助け出される…というストーリーです。
白象は工場で働く「労働者」、オツベルは工場経営者である「資本家」の比喩になっています。
ひどい扱いで虐げられている労働者が、資本家をやっつけるお話です。
つまりは、スカッとするハッピーエンド?
けれど『オツベルと象』は、「スカッと」よりも「ポカンと」する終わりかたです。
白象は、最後仲間に助けられながら、なぜか少し寂しそうな顔をします。さらに続けてよくわからない1行も入ります。
おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
意味不明です…。
この記事では、そんな『オツベルと象』を、「資本家と労働者」「無垢と裏読み」の2つの立場から考察します。そして、最後の1行の持つ意味や、象の「さびしいわらい」についても意味を考えていきます。
『オツベルと象』まめ知識!
・かつては「オッペルと象」というタイトルでひろまっていました。
ただ初出誌を確認したところ、「オツベルと象」となっていたので、それからは今のタイトルに修正されています。
・最後の一節の[一字不明]は、「初出誌では黒い四角(ゲタ)、または小さな黒点(・)になっている部分がある」そうです。
また、昔の全集では「君」という言葉が当てられているものもあります。(Wikipediaより)
・こちらが作中の「稲扱器械」=足踏み脱穀機の様子です。のんのんのんのんのんのん
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宮沢賢治『オツベルと象』 基本情報
『オツベルと象』概要
作 者 | 宮沢賢治 |
発表年 | 1926年(大正15年)1月 |
初出誌 | 雑誌『月曜』 |
テーマ | 労働者と資本家のいい関係の模索・無垢であることの難しさ |
『オツベルと象』主要な登場人物
- 白象……オツベルの工場にふらっと現れた白い象。二十馬力。
- オツベル……学校ぐらいの工場を持つ経営者。白象を雇う。頭がいい。
- 百姓…オツベルの工場で働く労働者。16人いる。
- 山の象たち……白象を助けに現れた、仲間の象。
- 牛飼い……オツベルの工場の顛末を語る語り手。
『オツベルと象』あらすじ
オツベルは工場を経営している資本家です。
ある日、オツベルの元に白象がやってきます。オツベルは二十馬力の白象を雇うことに成功しました。
白象は最初は楽しく働いていましたが、オツベルの白象に対する扱いは徐々にひどくなっていきます。
弱った白象が月に呼び掛けると、月は仲間に手紙を書くようにアドバイスをしました。
白象の手紙を読んだ仲間はオツベルを倒します。
白象は仲間にお礼を言いながら、さびしく笑いました。
ここからは、実際の小説の本文と照らし合わせをしつつ、個人的な考察をしています。
細かいネタバレになりますのでご注意ください。
『オツベルと象』解説・解釈・考察
私の考えた『オツベルと象』の解釈は2つです。
1つは、「資本家と労働者」という立場を中心にした考察です。
『オツベルと象』は、一見「虐げられた労働者が経営者に勝利する」というスカッと話に見えます。
けれど「明日の労働運動に繋がらないための配慮」がされていたり、「資本家にもいい所がある」ことも描いています。
このことから、スッキリできるストーリー自体と言いたいことは逆で、「労働者と経営者の暴力的な争い」を「良いと思っていない」小説と言えます。
もう1つは、「白象のストーリー」を追うことで見た結論です。
『オツベルと象』は、子供が無垢なままでいられない寂しさを描いています
ここからはそのように考えた理由を、それぞれ見て行きます。
「資本家と労働者」を中心に『オツベルと象』を読む
「資本家と労働者」を中心に『オツベルと象』を読み解く場合、「語り手」の存在と物語の作りが重要です。
『オツベルと象』の作り 語り手の存在
このお話は、最初に
……ある牛飼いがものがたる
と書かれていることからもわかるように、語り手がいます。牛飼いです。
「オツベルの工場で起こった顛末」は牛飼いの言葉で語られ、最後はオツベルの顛末のお話とは別に、牛飼いの「川へはいっちゃいけない」という言葉で終わっています。
オツベルの工場でのストーリー テンポのいい娯楽作品
牛飼いは、話上手です。
「のんのんのんのんのんのん」「グララアガア、グララアガア」のような独特な擬音を使いながら、白象をひどい目にあわせたオツベルがやっつけられる顛末を語ります。
なんでもない部分もテンポがいいです。例えば、こんな一節、
「するとこんどは白象が、
これを、手でリズムをとりながら読んでみます。テンポがいいと思いませんか。
文法としては「片脚」のあとに「を」があっていい部分です。けれど「を」を入れて読むと、途端にリズムが崩れます。
今ではピンときませんが、この話が発表された1926年は映画館では音の出ない映画が上映されていて、庶民の娯楽として大人気でした。
そのような映画が上映されるときには横に、「活動弁士」が付いていました。今のナレーターでもあり声優さんでもある感じで、リアルタイムに画面の状況を語ります。大人気の活動弁士さんもいたりしました。
テンポの良さは大事
『オツベルと象』は、まずは、テンポの良さを意識した娯楽作品だと言えます。
最後の1行の意味と効果 「??」への転換
映画で言うと物語のクライマックスは、大迫力の象の大群が現れる場面です。
「グララアガア、グララアガア」と押し寄せる象にひどい経営者は罰を受けます。
読者の大半は労働者だと思いますが、これを読めば胸がスッとして大喝采です。
けれど、この作品はクライマックスの盛り上がりから、急に読者の感情が変わるように作られています。
おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
ついさっきまで、象が悪い経営者をやっつける迫力の描写に気分が高まっていた読者は、ここで急に感情が変化します。盛り上がりは一気に去り、残るのは疑問符です。
【 読者の気持ちの変化 】
「悪い経営者をやっつけた!!」
「一字不明?? 川?? いきなり川? ?????????」
最後の1行の意味は、意味不明です。
しかも「一字不明」と書かれた部分が謎としてどうしても残ってしまうので、結局のところ意味はわからないと思います。
なので発想を変えて、ここの部分は「何を言っているのか」を考えるのではなく、この文章の効果を考えます。
最後の1行が無く、この作品が象がオツベルを倒して盛り上がった気分のまま終わったとしたらどうでしょう。
この作品が載った雑誌の名前は「月曜」です。
例えば休みである日曜日に「グララアガア、グララアガア」と経営者を倒すこの作品を読んだ読者が、月曜日に「やはり経営者は倒されなければならない!」と思って実際の行動に出るきっかけになるんじゃないでしょうか。
作品の発表された4年前、1922年12月には社会主義国である「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立しています。
当時は日本でも資本家と労働者が対立する階級闘争が盛んでした。
そんな中この作品は、労働者が立ち上がるストーリーで盛り上げておきながら、あえて最後の1行でその気持ちを「??」に変えることで、闘争への気持ちをそらさせるような形になっています。
また、「川へはいっちゃいけないったら」という言葉も意味は不明ですが、「何かを止めたい」というニュアンスが感じ取れます。物語の作りとこの言葉の両方とも、「何かをさせない」という流れを持たせるという点で一致します。
つまり、この1行は「労働者が資本家を実際に倒しにいく」という行動に、ストップをかける役割があります。
・最後の1行は、意味としては不明。何かを止めたいニュアンスは伝わる。
・最後の1行は、クライマックスで盛り上がった気持ちを、そらさせる効果がある。
→『オツベルと象』は、「労働者が経営者を倒すストーリー」を語りながら、実際の行動に出ることは止めさせる作り
別の見方を与える牛飼い オツベルはすごい・象はきちが〇
また、語り手にはもう1つの役割があります。
牛飼いは、ひどい経営者であるオツベルを「やっぱりえらい」といい、助けに来る象の様子を気が狂っている=「きちが〇」と表現したりします。
ちなみに牛飼いのオツベルびいきは本気です。
牛飼いは第一日曜、第二日曜は自分からオツベルについて聞き手に話を振り、オツベルのすごさを布教します。
けれどオツベルの最期になる第五日曜は、自分からはオツベルについて語りません。相手に質問されて話し始めます。
これは、牛飼いが本当にオツベルに憧れていたから、その最期を語りたくなかったからです。
牛飼いにとってオツベルは頭のいいアニキ、羽振りのいい実業家、いい物を食べている成功者=憧れの存在です。
「オツベル=すごい、象=きちが〇」という牛飼いは、悪い経営者が労働者に倒されるというストーリーとは逆の見方を登場人物に与えています。
語り手は、「労働者=善、経営者=悪 → だから倒す」という単純な見方に待ったを掛ける存在にもなっている
「赤」 役にも立ち、悲劇にもなる
もう少し、オツベルと白象について見て行きます。
次にポイントになるのは「赤」です。
オツベルと象が持つ「赤」
この物語では「赤」が効果的に使われています。
「赤い竜の眼」が生み出した「赤い着物の童子」は、「竜」という言葉からそこに力があることを感じさせます。
そして、オツベルと白象もこれと同じ「赤」い衣服を持っています。
牛飼いは、オツベルのことを「頭がよくてえらい」といい、白象のことは「力も二十馬力もある」と言っています。
その力の元になる、頭にオツベルは赤い帽子をかぶり、足に白象は赤い靴を身に付けています。
赤は2人の優れた部分です。
「赤」が悪い方向に働き出す
しかし、「赤」は悪い方向にも向かいます。
オツベルは、徐々に白象のことが怖くなってきました。
それは、白象の言葉の裏を考えすぎたことが原因の1つです。
「ああ、ぼくたきぎを持って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらってこう言った。
オツベルは少しぎょっとして、パイプを手からあぶなく落としそうにしたがもうあのときは、象がいかにも愉快なふうで、ゆっくりあるきだしたので、また安心してパイプをくわえ、小さな咳を一つして、百姓どもの仕事の方を見に行った。
「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で、石もなげとばせるよ」
オツベルはまたどきっとしたが、気を落ち付けてわらっていた。
ここの部分でオツベルは、白象が森へ帰りたいといっているのか、オツベルをやっつける力があるといいたいのか、言葉の裏を感じ取ろうとしています。
オツベルの深読み・頭の良さは、白象への恐怖心も増やす原因にもなりました。
オツベルはすでに白象に鎖を付けていましたが、ここから白象の食べ物を減らすという強い手段に出るようになっています。
一方、白象の足は力の象徴です。
こちらも悪い方向に働きました。オツベルの最期は象の「足」で踏みつぶされます。
力は良い労働力にもなり、暴力にも繋がります。
『オツベルと象』では「赤」に注目することで、「優れた部分が使いようによって悪い方向にも繋がる」という流れを読む事ができます。
オツベルと白象の特徴を「赤」から見ると、それぞれに優れた部分があり、そこが悪い方向に繋がった流れが見える
資本家と労働者という点から見る『オツベルと象』まとめ
ここで、「資本家と労働者」を中心に読んだ『オツベルと象』について一旦まとめてみます。
ここまで、『オツベルと象』から、
・「労働者が経営者に勝利する」という労働者がスッキリできる話を書きながらも、実は最後の1行で労働運動から気を逸らし「労働運動に繋がらないための配慮」がされている
・「虐げられた労働者=善」というストーリーに、オツベル贔屓の語り手が違った見方を与えている
・「赤」は資本家にも労働者にもいい所がある点と、それが悪い方向に繋がる流れを見せている
ということを見てきました。
これは、
資本家と労働者の対立・労働運動を描いたストーリーを、喝采するような書きかたをしていない
ということに繋がります。
ストーリーの最後で、オツベルは潰され、白象は助け出されます。
かといって白象が幸せになったかというと、白象の笑いはさびしいものでした。
このラストは幸せに繋がっていません。
この話で一番楽しかった時は、2人のバランスがとれていた最初に近い時です。
オツベルはいつも本心を隠して顔を作っていますが、白象が自分のもとで働いてくれると決まった時は顔を作っていません。
「そうか。それではそうしよう。そういうことにしようじゃないか。」オツベルが顔をくしゃくしゃにして、まっ赤になって悦びながらそう云った。
「そう」を意味もなく連発して興奮するオツベルは、本気で喜んでいました。
また、白象は最初は楽しく働いていました。
夕方象は小屋に居て、十把の藁をたべながら、西の三日の月を見て、
「ああ、稼ぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ」と云っていた。
労働者と資本家が対立するもの、という思い込みもラストの寂しさの始まりになっている気がします。
「暴力的な労働運動は決して正しいものではなく、労働者も資本家もそれぞれの良い部分を生かして、お互い楽しく笑いながら労働する方法があるはず」
そのようなことを一見労働者びいきにみえるストーリーの裏で、宮沢賢治は考えているように思います。
『オツベルと象』を資本家と労働者という視点から読んでいくと、暴力的な労働運動を正しいと思わず、労働者と資本家の両方にとって笑いに繋がるような労働がないだろうかと考えている宮沢賢治の姿が見える
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白象のストーリーを中心に『オツベルと象』を読む
ここからはもう1つの結論、
『オツベルと象』は、子供が無垢なままでいられない寂しさを描いている
について、白象のストーリーを中心に考察していきます。
ここでは、
「無垢」対「裏の気持ち」
が鍵になります。
登場人物の設定 白象 声変わりもしていない無垢な少年
主人公の白象は「とてもきれいな、鶯みたいないい声」をしています。
オツベルと最初に会った時は自分のことを「わたし」と言いますが、しばらく経つと「ぼく」と言っています。
第二日曜には、オツベルに頼まれた仕事をするときに、こんなことを言っています。
「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で、石もなげとばせるよ」
出来ることが増えていく自分の身体の成長を感じています。
これらから白象は、「高い声&身体が日々成長中」=「声変わりもしていない少年」ぐらいの年齢設定といえます。
少年の鶯の声に対して「グララアガア、グララアガア」と叫ぶ仲間の象は大人で身体も灰色(怒りで黒くなるときもある)です。
白象は「白」から連想するような「無垢な存在」です。
オツベル 裏表があり、いつも表情を作る
それに対してオツベルは、裏の目的のためにいつも表情を偽ります。
出会った時は、白象に内心ぎょっとしつつも、それを隠し平静を装っています。
白象に時計や靴を与えたのは、本当の目的は鎖や重しを付け、白象の動きを阻害するためです。
オツベルがそれらのことをするとき、何度も「顔をしかめ」という表現が使われています。
表情を作ろうとするために、顔に変な歪みが出来てしまうのです。
オツベルは無垢の少年に対して、裏の表情を隠せる存在として設定されています。
感覚が違う2人の交流
オツベルは裏を使い分ける大人、白象は裏が考えられない子供といえます。
オツベルの時計や靴の贈り物に対して、無垢な子供の白象は、物事に裏があるということ自体がわからず素直にそれらを喜びます。
だからオツベルは、白象を簡単にだますことができました。
オツベルに不安を与える白象
無垢な白象にオツベルのような裏の顔はありません。
第二日曜で語った、「森へ行くのが好き」も「石をなげとばせる」も言葉通りの意味です。
けれど、この無垢な言葉は、裏を使い分ける大人のオツベルには不安感をあおりました。
白象の力を削ぐときも、オツベルは策を弄し「本音を見せない」自分のやり方を使います。
白象はオツベルの「税金が上がった」という嘘に騙され続け、餌を減らされ働かされ続けます。
白象は、裏がある「大人の世界」に苦しめられます。
そして裏を理解できない白象には対抗する力がありません。
ちなみにここに白象と他の16人の労働者=百姓の違いがあります。
百姓は動けなくなってしまった白象ほどひどい仕打ちは受けていません。
百姓は最初に白象がやってきたときに、ぎょっとしながらも自分の作業を続けています。
百姓は、本当の気持ちを表に出さず裏の顔を出し続ける大人の術を持っているので、白象ほど簡単にはだまされません。
オツベルの策が、白象を無垢から「赤い竜の眼」への変化させる
そんな素直な白象が第五日曜ではついになかなか笑わなくなり「時には赤い竜の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになって」きました。
この「赤い竜の眼」は前後を読むと、
- 白象が笑わなくなった理由とつながりがあり、その気持ちがさらに進むと現れる眼
- それがしっかりとオツベルに向けられている
ということがわかります。つまり、
今、ぼくはとても苦しい
この原因がオツベルにあると感じはじめ、憎しみをオツベルに持つようになってきている
ということでしょう。
何かがおかしいと思いはじめた無垢な白象は、大人が使い分ける言葉の裏の心というものに気が付き始めました。
白象は「赤い竜の眼」をするようになったころから、大人の持つ裏の心に気が付き始めている
白象のさびしい笑いの意味① 白象が見せた大人の表情
白象は、一旦はその憎しみを出さずに、そのまま死のうとしています。
けれど気持ちは月と同じように膨らみます。
そして、赤い童子が現れ、促され仲間に助けを求める手紙を出します。
その結果、白象は助け出され、オツベルは仲間に踏みつぶされます。
白象は仲間にお礼をいい、「さびしくわら」いました。
ここの「さびしいわらい」を、まずはその内容よりも、白象が「さびしいわらいを見せた」こと自体に注目してみます。
今までみてきたように、白象は裏表がわからない子供でしたが、「大人には本音を隠す裏の心があること」を理解しはじめました。
そのように変化した白象だからこそ、最後に自分自身が
「裏にあるさびしさを押し込めながら、わらう」
という、複雑な表情ができるようになったのだと思います。
この表情は白象が、気持ちが素直に出る無垢な子供から、裏の心を備えた大人の表情ができるようになったことを表しています。
白象はこれから周りの大人の象と同じように、灰色になっていくのかもしれません。
無垢だった白象は、「裏のさびしさを押し込めながら、わらう」という複雑な表情を手に入れた。
これは白象が「裏を持つ大人」へと変化していくことの現れ
白象のさびしい笑いの意味② オツベルを殺すつもりではなかった
今度は行動ではなく、白象の「さびしい笑い」に含まれる「気持ち」について考えます。
白象が出した手紙は次の文面です。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」
ここには、「オツベルを倒して」という言葉はありません。
しかし仲間の大人の象は「オツベルをやっつけよう」という風に反応しました。そしてオツベルはつぶされます。
無垢な白象は文面通りの言葉を使います。なので、オツベルを殺すつもりはありませんでした。
にもかかわらずオツベルは死んでしまったということで、この「さびしい笑い」は
助けてもらったのはうれしい、でもオツベルが死んでしまってさびしい
という嬉しさとさびしさが合わさった気持ちから出た表情、と考えられます。
白象のさびしい笑いの意味③ こうなるとわかっていた
ただ、今までの考察を踏まえると、この白象の言葉は②とは違う意味にとることもできます
白象はこの手紙を出す前に、すでに「赤い竜の眼」をたまにするようになっています。
オツベルが隠していた裏の心に気づき、憎しみをオツベルに向けるようになっています。
そして最後には、白象自身が「さびしい笑い」をするという、大人に変化していることも描かれています。
白象はいつ大人になったんでしょうか。
そして大人になった象が「裏が考えられる」ようになっていたとしたら、自分の書いた、
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」
という直接の願いを書かない文章が、仲間にもたらす効果にも気が付いていたのかもしれません。
この考え方の場合、白象の心の中は
大人の考え方に気が付いた白象が、自分も大人流に本心を書かずに文章を書いてみた。
すると、思った通りの出来事が起こった。
ということになり、さびしい笑いは
助かったけれど、自分が完全に無垢な子供ではなくなってしまった寂しさ
と言えます。
『オツベルと象』考察まとめ
ここまで『オツベルと象』を、
一見労働者をスカッとさせる物語に見せながら、暴力的な労働運動を正しいと思わず、労働者と資本家の両方にとってのいい労働を模索した作品
という読み方と
裏を読めなかった無垢な子供が、労働を通じて、裏の読める大人になっていく作品
という2つの流れで考察してきました。
オツベルと白象がうまく行かなくなったきっかけは、オツベルが白象の無垢さを理解できず、大人として裏読みして不安が増幅したことです。
そして無垢だった白象も、「裏読み」に騙され続け、裏読みできる大人に変わっていきました。
けれど裏読みは、オツベルが辿った道のように、人間関係にしなくてもいい不安をもたらすことがあります。
オツベルが白象を手に入れた時は、素直に感情を出していました。
オツベルがそのころの気持ちのままだったら、白象にここまでひどい搾取は行われず、最後の悲劇にはつながらなかったと思います。
このことから『オツベルと象』は、
・暴力的な労働運動の否定
・資本家と労働者が強みを生かしながら働くことの肯定
・そのために裏読みに走らずに、想いを素直に表すことが必要なこと
が大切と言っているように思います。
しかし、
・無垢な白象が虐げられたように、裏読みに満ちた世界の中で素直なままでいるのはとても難しいこと
です。
その難しさがわかっているから、物語の最後は変わってしまった白象の「さびしい顔」と、詳しい意味は不明ながらも「そっちへいってはいけない = 裏読みの大人の世界に入ってはいけない?」ということも感じさせる謎の言葉で終わるのかもしれません。
\『オツベルと象』を解釈したマンガ/
オツベルと象懐かしい。萱島雄太先生の同人誌まだもってる!https://t.co/wV2KOvSUee pic.twitter.com/OASYLYRJPI
— くぜ@FishTanker (@kuze_toru) November 30, 2021
解釈の捕捉 周辺情報
ここから、解釈の助けになるような周辺情報です。
調べて分かったんですが、象ってけっこうすごい!
初出誌「月曜」は「大人の童話」「大人のメルヘン」
人がつぶされてしまう、という怖い内容からもわかるように、『オツベルと象』は、子供向けではありません。
『オツベルと象』が最初に載った雑誌「月曜」の編集後記には、主宰の尾形亀之助が「子供の讀み物に童話といふものがあるがそれにあてはまる大人の讀みもの」を募って雑誌を作った様子が書かれています。
そして
ひろい意味での「メールヘン」です。わたし達がイロイロとわづらはしい生活の間にホツと氣をぬくのにイヽ讀み物です。
「月曜」第一卷第一號 編輯後記 尾形亀之助 引用はブログ「鬼火」230000アクセス記念ページより
と言っています。
社会でいろいろわずらわしさを感じている大人が、ちょっとホッとできる読み物。
それは、「経営者に虐げられている労働者が勝つ」という『オツベルと象』が持っている体裁と合っていると思います。
『オツベルと象』が大人向け童話ということは初出誌からもわかる。
象のコミュニケーション
「市原ぞうの国・サユリワールド」の「ぞうさんQ&A」のページにおもしろいことが書かれていました。
市原ぞうの国・サユリワールド「ぞうさんQ&A」より引用
- ぞうさん同士は、どうやってコミュニケーションしているの?
大人のぞうさんは低周波音という人間の耳には聞こえない音で会話をしています。また、顔と顔をくっつけたり、匂いをかいだりもします。
そのほかにも、まだまだ知られていないコミュニケーション能力があるかもしれません。
低周波音は、人間の耳に聞こえず、遠くまで届くことが特長です。
ある地域で何もしないのに自宅の仏壇がガタガタいうので祟りかと思い騒ぎになって調べたところ、数十キロメートル離れたダムの水が放水された時に生じた低周波が、その扉に影響を与えていた…なんてこともあったそうです。
『オツベルと象』では白象の手紙は赤い着物の童子が届けています。
この童子は神の使いのように見えながら、その言葉遣いは子供っぽくすこしぞんざい。つまり白象と同じです。
もしかしたら、赤い童子は白象自身が大人になることで手に入れた能力=低周波音という特殊な力の象徴かもしれないとも思います。
ただ、ちょっとそれを書くには、象の能力の調べと、宮沢賢治の時代からそれがわかっていたのかの調べが足りないんですが…。
実際の象も「低周波音」という声を遠くまで届ける仕組みを持っている
『オツベルと象』の感想
オツベルは最期に、
「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」
という象の仲間の言葉を聞いて、「どっかで聞いたことがある」と思いながらも思い出せません。
それは白象が最初に登場したときの言葉で、その時ぐらいの素直な嬉しい気持ちをオツベルが思い出せないということが悲しいな、と思いました。
『オツベルと象』は大人に書かれただけあって、作品自体にも「スカッと話」という表と、「暴力はどうなのかな」という裏があり、裏が読める大人向けの複雑な作品だと思います。
ちなみに、「一字不明」の部分になにが当てはまるかはやっぱりわからないとは思うんですが、個人的には牛飼いが牛を呼ぶ声だと思ってます。
岩手には「牛の博物館」という牛特化のめずらしい博物館があって、私は行ったことないですが、そこに行った人のブログで、「牛飼いは牛の言葉が話せるようになって一人前」みたいな感想があったような…。
だから、この■はたぶん人語で表せない「牛の言葉」なんじゃないかな、と思います。
全集にあった■を「君」として、「牛飼いの話に飽きて川に入ってしまった子供への呼びかけ」とする定説についてですが、牛飼いのこの擬音まじりのテンポのいい熱弁は、飽きる話じゃないと思うんですよね…。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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こちらの記事では、同じ宮沢賢治の『やまなし』『注文の多い料理店』の考察をしています。
宮沢賢治が『やまなし』で伝えたかったことは?クラムボンとかぷかぷの正体
宮沢賢治『注文の多い料理店』解説考察|犬はなぜ生き返った?あんまり山が物凄い
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