「逢魔が時」の読み方・意味
「逢魔が時」は「おうまがとき」と読みます。「逢魔時」「逢魔が刻」「大禍時」とも書きます。
意味は昼から夜に移り変わる時刻、夕方の薄暗い時間帯のことです。具体的には夕方の5時~7時頃と言われています。
この時間は魑魅魍魎(魔)に出会う時間帯と考えられたことからこのように呼ばれました。
言葉としては「大禍時」の方が古い書き方のようです。言葉通りの「大きな禍(わざわい)が起きる時刻」という意味でした。
そこから、魑魅魍魎(魔)に出会う時間という意味の「逢魔が時」に変化したと言われています。
昼=人のための時間 夜=異界の者のための時間
奈良県の箸墓古墳の成り立ちについて日本書紀に書かれた文章で、「墓は昼は人が作り、夜は神が作った」というものがあります。
これを見ても、夜は人の支配が及ばない時間だと考えられていたことがわかります。
その境目にあたる時間が夕方=逢魔が時です。
境目ということは、人が異界の者と繋がる可能性がある時間ととらえられていたのでしょう。
それは実は魔物だけとは限りません。
万葉の時代からあった占いで、夕占(ゆうけ)というものがあります。
夕方の薄暗い時間帯に辻に立って、聞こえてくる道行く人の言葉から神託を得て占うというものです。
夕方を一方で「逢魔が時」と考え、そして一方でご神託が得られる時間帯としています。
それはどちらもこの時間が人が異界の者と触れあう可能性のある、境目の時間と考えられているからです。
併せて覚えたい言葉・類語
「黄昏時」(たそがれどき)が類語です。
こちらは、夕方薄暗くなって、人の顔の見分けが難しくなった時間帯の意味です。
誰そ彼れ?(そこにいるあなたは誰?)
…………………………
「そこにいるあなたは誰?」と問いかける古い言葉、「誰そ彼れ」から変化し、黄昏という言葉は生まれました。
夕方の逆光などもあって、相手のことは見えにくくなります。
逢魔が時と日暮れの時間帯という意味では同じですが、逢魔が時の方がまがまがしい雰囲気があるのに対して、黄昏時は一日が終わる寂しさを情緒的に感じている言葉です。
逢魔が時の対義語
「黎明」(れいめい)は対義語です。明け方、夜明けのことを言います。
または、物事の始まりを指します。
「あの時代がインターネットの黎明期だったかもしれない」など、こちらは今でも使われます。
「逢魔が時」を使った小説・文学
青空文庫で、豊島与志雄の「逢魔の刻」という6ページの随筆がありました。
現在、吾々の生活にも――特に精神生活には、そういう逢魔の刻がいろいろある。「こんなことをして一体に何になるか。」というのがそれだ。物を書いたり、金儲けをもくろんだり、女と戯れたり、人類とか社会とかを考えたり、鍬を執ったり、ハンマーを振上げたり、とにかくいろんなことをしてる最中、ふと、「何になるか」というやつに出逢ったが最後、吾々の精神は白け渡って、溌剌たる生活力は萎微してしまう。
(豊島与志雄『逢魔の刻』より引用)
この作品では逢魔の刻に外にいる魔物に会うのではなくて、自分の精神の中にいる魔物に出会う話をしています。そして人間以外の動物はそんなことは考えない、腹が据わっている、と考えています。
豊島与志雄は大正時代の作家・翻訳者です。Amazonか青空文庫で無料で読むことができます。
まとめ
この記事では「逢魔が時」について解説しました。
「逢魔が時」(おうまがとき)は、昼から夜に移り変わる時刻、夕方の薄暗い時間帯のことです。この時間帯は、人間の時間である昼から、異界のものの為の時間である夜に移り変わる境目であり、人が魔物に遭遇する危険があると考えられていました。
現代では小説やゲームのタイトルなどでしか見かけませんが、電灯も無く今よりも夜が深い闇だった時代を感じさせる、美しい日本語です。